上田繁潔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2013年12月5日 (木) 22:32時点における曾禰越後守 (トーク)による版 (Temp調整)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

上田 繁潔(うえだ しげきよ、1921年10月16日 - 2011年5月20日[1])は、日本政治家。第10代~第12代奈良県知事

経歴

奈良県奈良市生まれ。旧制小学校を卒業後、奈良県庁で働きながら夜間の旧制金鐘中学(現・東大寺学園高等学校)に通学し、1946年関西大学経済学部卒業。奈良県庁に再度入庁し、各課長、総務部長を歴任、1975年下位副知事の後を受け副知事に就任した。

1980年9月、奥田良三知事が健康上の理由で辞任を表明すると、副知事を勤めていた上田繁潔が10月の知事選挙に立候補して当選した。奈良県知事を3期11年余り務め、在任期間の後半はバブル景気に恵まれたこともあり、なら・シルクロード博覧会1988年)などを成功させた。

1991年辞意を表明、退官後は関西大学理事長などに就任した。息子の上田清は、奈良県教育委員会課長補佐から1999年の知事選に出馬したが柿本善也に敗れ、大和郡山市長に回った。

2011年5月20日、急性肺炎のため大阪府箕面市の自宅で死去した。89歳没[1]

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 1.0 1.1 時事ドットコム:上田繁潔氏死去(元奈良県知事、上田清奈良県大和郡山市長の実父)


テンプレート:奈良県知事