徳川宗尹
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テンプレート:基礎情報 武士 徳川 宗尹(とくがわ むねただ)は、江戸時代の一橋徳川家(御三卿の一つ)の初代当主。
江戸幕府8代将軍徳川吉宗の四男。母は側室深心院。11代将軍家斉は孫、12代将軍家慶は曾孫、13代将軍家定、14代将軍家茂は玄孫にあたる。
享保20年(1735年)、3万俵を賜り別家して一橋徳川家を創設した。順次加増され、延享3年(1746年)には10万石となった。明和元年(1764年)、44歳で死去した。跡を四男の治済が継いだ。
武芸を好み、鷹狩りは割り当てられた回数では不足したため、兄の宗武より割り当て枠を譲ってもらうほどであった。陶芸や染色もたしなみ、染手拭いを家臣に与えたり、手作りの菓子を父の吉宗や兄の家重に献上した。
目次
経歴
※日付=旧暦
- 1721年(享保6年)閏7月15日 - 誕生。22日 - 松平小五郎と名付けられる[1]。
- 1735年(享保20年)9月23日 - 元服して宗尹と名乗り、徳川姓を称する。従三位左近衛権中将兼刑部卿に叙任。3万俵を賜る。
- 1737年(元文2年)10月18日 - 2万俵の加増。
- 1740年(元文5年)11月18日 - 江戸城一橋門内に邸を賜り、1万俵加増。
- 1741年(寛保元年)11月25日 - 一橋邸を定住とする。
- 1745年(延享2年)11月2日 - 参議に補任。
- 1746年(延享3年)9月15日 - 10万石を賜る。
- 1764年(明和元年)12月22日 - 薨去。法名は覺了院殿冬巖性達大居士。
- 1770年(明和7年)10月4日 - 贈権中納言
家臣
- 久田萩之助(享保7年3月15日、伽役。後に用人)
- 桜井久右衛門(享保11年8月3日、近習)
- 筧新三郎(享保11年8月3日、近習)
- 酒井重英(享保14年閏9月28日、守役)
- 大久保忠位(享保14年閏9月28日、守役。後に御用掛)
- 巨勢至信(享保20年閏3月26日、御座所所廻)
宗尹が登場する作品
脚注
テンプレート:一橋徳川家- ↑ 武子裕美「御三卿の家臣団構造」2011年3月(『学習院史学49』学習院大学史学会)