雲龍 (空母)

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ファイル:Japanese aircraft carrierUnryu.jpg
艦歴
計画 マル急計画
起工 1942年8月1日横須賀工廠
進水 1943年9月25日
竣工 1944年8月6日
喪失 1944年12月19日
除籍 1945年2月20日
性能諸元 (竣工時)
排水量 基準:17,480t
公試:20,450t
全長 227.35m
全幅 水線幅:22.00m
吃水 7.86m
飛行甲板 216.9m x 27.0m
エレベーター2基
主缶 ロ号艦本式専焼缶8基
機関 艦本式タービン4基4軸 152,000hp
最大速力 34.0kt
航続距離 8,000nm / 18kt
乗員 1,556名
兵装 40口径12.7cm連装高角砲6基
25mm3連装機銃21基
25mm単装機銃30挺
12cm28連装噴進砲6基
装甲 舷側46mm、甲板25mm
搭載機
(計画時、常用+補用)
一七試艦戦(烈風):18+2機
一七試艦偵(彩雲):6+0機
一六試艦爆(流星):27+0機
合計:51+2機

雲龍(うんりゅう)は、大日本帝国海軍航空母艦雲龍型航空母艦の一番艦。太平洋戦争末期に竣工したため空母として実戦に参加する機会はなかった。1944年12月中旬、フィリピン方面への軍需物資および特攻機桜花」輸送任務中に米潜水艦の雷撃を受け、撃沈された。

建造背景

太平洋戦争開戦前

1940年(昭和15年)7月、アメリカで両洋艦隊法が成立し、アイオワ級戦艦2隻、モンタナ級戦艦5隻、航空母艦18隻、アラスカ級大型巡洋艦6隻、巡洋艦27隻、駆逐艦115隻、潜水艦43隻の建造が決定する。このうちアメリカ海軍エセックス級航空母艦三隻に対抗するため、翌年に日本海軍は「昭和十六年度戦時急造計画」(マル急計画)として建艦計画をたて、その中で中型空母一隻を緊急建造することとした。これが第302号艦「雲龍」である。第四次海軍軍備充実計画(マル4計画)で建造予定の空母は1隻(大鳳)のみであり、それも竣工まで時間がかかると予想された為の措置である[1]

太平洋戦争開戦後

昭和16年時点で、11隻の建造が決定していた(最終的に32隻の建造が計画された)エセックス級への対抗とミッドウェイ海戦における空母喪失を補うため、昭和十七年度軍備充実計画を改訂し、昭和十七年度戦時艦船建造補充計画として改大鳳級5隻、先の中型空母15隻の追加建造を決定した[2]

建造

雲龍型航空母艦は工事を急ぐために新規設計や各種試験実験を行う余裕がなく、中型空母としては理想的だった「飛龍」の図面を基に建造されたが、実艦の不具合や運用経験を元に幾つかの変更点が盛り込まれた[3]。これが雲龍型を飛龍改と呼ぶ理由となっている[3]。変更点は以下の通り。

  1. 飛龍で不評だった左舷中央部配置の艦橋を、蒼龍と同様に右舷前部へ配置変更[1]
  2. 舵の形式を蒼龍と同じ吊下式二枚舵とする[3]
  3. 緊急建造の為に中央部エレベータを廃止し2基とした[1]。ただし、各エレベーターは航空機の大型化に対応するために14メートル四方と拡大している。
  4. 竣工時より対潜水艦迷彩を施す[1]
  1. 対空機銃の増設及び12cm28連装噴進砲(ロケット弾)装備(高角砲は同数)。
  2. 以前は右舷側のみの罐の空気取り入れ口を左右両舷とした。
  3. 艦内の塗料を不燃性に変更。
  1. ガソリンタンクの周囲の防水区画にコンクリートを注入して充填する

戦歴

「雲龍」は1942年(昭和17年)8月1日起工、1943年(昭和18年)9月25日進水。同日附で佐世保鎮守府所属[4]。1944年(昭和19年)8月6日竣工。同日、第一航空戦隊に編入される[5]。起工から竣工まで約2年であり、飛龍型航空母艦の3年に比べて1年短縮されている。しかし日本海軍航空隊はろ号作戦ブーゲンビル島沖航空戦トラック島空襲パラオ大空襲マリアナ沖海戦等の相次ぐ敗北ですでに壊滅状態であったため、「雲龍」は姉妹艦の「天城」と第1航空戦隊を編成したものの、空母機動部隊として運用されることはなかった。8月10日時の第一機動艦隊編成は以下の通り[6]

第三艦隊 司令長官小沢治三郎中将(第一機動艦隊司令長官 兼務)

一方、日本海軍はレイテ沖海戦直前の1944年10月1日、有人ロケット特攻兵器桜花」を主力とする第七二一海軍航空隊(神雷部隊)を編成する。同隊出撃準備中に米軍がフィリピンに襲来してフィリピンの戦い (1944-1945年)がはじまり、10月下旬のレイテ沖海戦で日本海軍は壊滅する。第三艦隊においては10月25日エンガノ岬沖航空戦で空母「瑞鶴」「瑞鳳」「千代田」「千歳」が沈没。「雲龍」所属の第601海軍航空隊も空母「瑞鶴」艦載機や陸上基地に転用され、米軍との航空戦で戦力を喪失した[7]。10月30日、「雲龍」は一時機動部隊旗艦となって将旗を掲げるが、11月7日に旗艦は「龍鳳」へ移り、11月15日には第一機動部隊そのものが解隊された[8]

空母機動部隊が壊滅するのと並行して、日本海軍は零式艦上戦闘機等による航空特攻を開始していた。フィリピンの戦局が悪化する中、海軍は桜花投入時機について12月23日のレイテ湾を想定していた[9]。しかし桜花の発射母体たる一式陸上攻撃機が、桜花を懸吊したまま内地からフィリピンへ飛行進出する事は不可能であった[9]。そこでフィリピンに整備部隊が先行して駐在し受け入れ体制を整え、しかるのち海上輸送により桜花を進出させる事になる[9]。まず桜花50機が大和型戦艦改造空母「信濃」に搭載され、第17駆逐隊(浜風雪風磯風)の護衛により横須賀から呉に回航された。だが「信濃」は11月29日に米潜水艦「アーチャーフィッシュ」 (USS Archer-fish, SS/AGSS-311)の雷撃で撃沈され、搭載した桜花50機も喪失した[9]。日本海軍は尚もフィリピンでの桜花投入にこだわり、今度は空母「雲龍」が桜花30機をフィリピンへ海上輸送する事になる[9]

1944年12月17日朝、第2水雷戦隊・第21駆逐隊「時雨[10]、第52駆逐隊の松型駆逐艦」「」に護衛されて「雲龍」は呉を出港し、「緊急重要物資」(特攻兵器桜花)輸送のため、フィリピンのマニラへ向かう[11]。同日、フィリピン方面で行動中の米軍機動部隊第38任務部隊コブラ台風に翻弄されていた。12月18日の時点で「雲龍」は米潜水艦と思われる電波を探知し、警戒を強めていた[11]。19日、「雲龍」は悪天候の中を航行し、小西艦長以下全員が潜水艦を警戒して艦橋につめていた[12]。各艦は空母「雲龍」を中心として同艦左斜め前方1.5kmに「時雨」、雲龍左斜め後方に「樅」、雲龍右斜め前方1.5kmに「檜」という配置で航行していた[13]

19日16時35分、「雲龍」は魚雷発射音を探知[12]。この米潜水艦はバラオ級潜水艦レッドフィッシュ」(USS Redfish, SS/AGSS-395)だった。発射された魚雷は4本であった。「雲龍」は右に舵をとり魚雷3本まで回避したが、右舷中央部(艦橋下部)に魚雷1本が命中した[14][15]。命中した魚雷によって第一缶室、第二缶室に浸水した[14]。「雲龍」からは潜望鏡らしきものが観察され、高角砲と機銃で応戦したが電源が停止して射撃不能となる[14]。機械室で火災が発生しつつ「雲龍」はなおも右旋回を続けたが、前部予備電源も停止し、後部予備電源で非常用ディーゼル消防ポンプを作動させる[16]。火災は鎮火したが、速度が次第に低下し、やがて「雲龍」は停止してしまう[15]。「雲龍」が停止したのは、魚雷が命中した地点より、さらに「レッドフィッシュ」寄りの場所であった[15]。乗組員は輸送中のトラックを投棄して傾斜回復につとめた[15]。「レッドフィッシュ」は停止した「雲龍」に対してさらに魚雷1発を発射した。16時45分、2本目の魚雷が右舷前部(艦橋のやや後方)に命中する[16][15]。「雲龍」は1本目の魚雷で右に傾斜しており、2本目の魚雷の炸裂は沈下していた下部格納庫に及んだ[15]。下部格納庫には輸送物資として搭載された「桜花」20機があり[15]、それらが次々と誘爆する状態となった[17][18]。やがて「雲龍」の火薬庫にも火災が及び[15]、「雲龍」は前のめりとなって艦首から沈みはじめ、艦長は総員退去を命じる[16]。16時57分、海上に出ていた艦尾が水面下に消え、「雲龍」は沈没した[19]。「レッドフィッシュ」からは「雲龍」が黒煙に包まれ沈没は確認できなかったが、黒煙が消えたときに艦影がないことを確認した[15]。米軍によれば、沈没地点はテンプレート:Coord。「レッドフィッシュ」は護衛駆逐艦の爆雷攻撃を受けて損傷、帰投したものの再び実戦配備についたのは1945年7月下旬の事であった。護衛駆逐艦3隻のうち「時雨」は12月20日に舵故障を起こして「樅」「檜」と分離、22日になって佐世保に帰投した[20]

「軍艦雲龍戦闘詳報」の戦訓は、『空母は発着甲板を有する故 練習機一機なりとも搭載し対潜哨戒に任ぜしめば昼間攻撃を受くる事なきものと認む。各基地よりの哨戒機のみにては極めて不充分なり。』と嘆いている[21]。また便乗した兵士などが、艦内を通行した際に防水扉の閉鎖をしないなど、安全管理上に問題があったことが報告されている[22]。「雲龍」沈没による戦死者は推定1241名に達し、乗組員生存者89名、便乗者生存者57名と記録されている[23]。陸軍兵の乗艦者の総計は不明だが、滑空歩兵第1連隊主力のほとんどが戦死した[24]。第一挺身通信隊は宇品港にて分隊135名が「雲龍」に乗艦、沈没により1名以外全員行方不明となった[25]

「雲龍」が米潜水艦に撃沈された事で、桜花58機を搭載した空母「龍鳳」の目的地はフィリピンのルソン島から台湾基隆市に変更となる[9]。12月30日、ヒ87船団と共に「龍鳳」は日本本土を出発する。この時の「龍鳳」護衛も、「時雨」及び第17駆逐隊「雪風(出港前日の機関故障で同行せず)」「浜風」「磯風」に指定されていた[26]。1945年(昭和20年)1月7日、「龍鳳」は台湾高雄市に到着して輸送任務を完了した。「龍鳳」と「磯風」は本土に帰還したが、「時雨」は引き続きヒ87船団の護衛を続け、1月24日米潜水艦「ブラックフィン」の雷撃により沈没している。2月20日、「雲龍」は除籍された[27]

雲龍遭難状況

第52駆逐隊司令の戦闘概報では軍艦雲龍戦闘詳報と生存者数および沈没時刻が異なっている[28]
一、雲龍遭難状況 十九日一六三七、北緯二十八度一九分、東経一二三度四〇分において、被雷一、右舷艦橋下に命中。浸水。反転。一六四五第二擊一。右舷前部命中。一六五一火薬庫大爆発。一七〇〇全没
三、救助作業 樅は直に救助に従事。檜は敵潜水艦を攻撃後参加。漂流者案外少なからずしも荒天と夜闇に妨げられ、作業意の如くならず。〇二一〇打切れり、救助人員海軍少尉森野広以下一四二名(陸軍一二、軍属二を含む)

追記

遠藤昭によると候補艦名として蛟龍があったという[29]

歴代艦長

艤装員長

  1. 小西要人 大佐:1944年4月15日 -

艦長

  1. 小西要人 大佐:1944年8月6日 - 12月19日戦死[30]

脚注

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参考文献

関連項目

外部リンク

テンプレート:日本の航空母艦
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 #日本空母物語273頁
  2. #日本空母物語274頁
  3. 3.0 3.1 3.2 #日本空母物語146頁
  4. #内令昭和18年9月(6)p.25『内令第千九百八十七號 軍艦 雲龍 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル|昭和十八年九月二十五日海軍大臣嶋田繁太郎』
  5. #第1機動艦隊戦時日誌p.5『三.七月十日第三艦隊軍隊区分ヲ左ノ通改ム 1sf(瑞鶴、龍鳳、大鳳、翔鶴、601空) 五.八月六日、1sfニ雲龍ヲ編入』
  6. #第1機動艦隊戦時日誌p.7『二.八月十日第三艦隊軍隊区分ヲ左ノ通改ム』
  7. #瑞鶴捷1号詳報(1)p.7『編制 今回ノ3sf搭載航空兵力ハ653空固有ノモノニアラズシテ基地進出後ノ残存兵力ト601空ノ一部ヲ以テ編制サレタル臨時混成辺力ニシテ…』
  8. #第1機動艦隊戦時日誌p.10『10.30 将旗ヲ雲龍ニ移揚/11.7 将旗ヲ龍鳳ニ移揚 /11.15 将旗ヲ徹ス』
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 #証言・桜花特攻11-13頁
  10. #昭和19年11月~2水戦日誌(1)p.14『麾下艦艇ノ行動 第21駆逐隊(初霜、時雨、初春)』
  11. 11.0 11.1 #軍艦雲龍戦闘詳報p.3
  12. 12.0 12.1 #軍艦雲龍戦闘詳報p.4
  13. #軍艦雲龍戦闘詳報p.11
  14. 14.0 14.1 14.2 #軍艦雲龍戦闘詳報p.5
  15. 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 15.5 15.6 15.7 15.8 丸 2012年10月号 空母雲龍特集
  16. 16.0 16.1 16.2 #軍艦雲龍戦闘詳報p.6
  17. #軍艦雲龍戦闘詳報p.6『1645(右)130度に雷跡を発見せるも機械停止の儘にして右舷前部に被雷 瞬時にして下部格納庫中の輸送物件マル大其の他に誘爆 大爆発次第に起り数分にして前部に大傾斜す』
  18. #軍艦雲龍戦闘詳報p.11『本艦下部格納庫ニマル大魚雷ノ実用頭部爆弾ヲ搭載セル為 魚雷ニ依リ誘爆セルモノト認ム』
  19. #軍艦雲龍戦闘詳報p.7『1657 艦尾ヲ上ニシ全ク海中ニ没ス』
  20. #昭和19年11月~2水戦日誌(1)pp.58-59『12月19日52駆、時雨護衛中ノ雲龍被雷沈没、時雨対潜戦闘|20日0947時雨舵機(電磁弁)故障ノ為佐世保ニ向フ』
  21. #軍艦雲龍戦闘詳報p.10『(ハ)対潜哨戒機を搭載の要あり』
  22. #軍艦雲龍戦闘詳報p.10『(ヘ)便乗者に艦内閉鎖を徹底せしむる要あり』
  23. #軍艦雲龍戦闘詳報p.8『便乗者ノ項正確ナラズ 目下関係各部ニ照会中』
  24. #陸軍航空部隊略歴(その6)p.32『台湾沖において米潜水艦の攻撃を受け海没(生存者三名)』
  25. #陸軍航空部隊略歴(その6)p.37
  26. #昭和19年11月~2水戦日誌(2)p.11『一応矢矧時雨ノ南方進出合同ヲ予定セラシモ前者ハ訓練未成ノ為1月中旬迄内海西部ニ於テ訓練ノコトトナリ後者ノミ12月31日ヒ87船団護衛六連発(略)』
  27. #内令(軍極秘)昭和20年2月p.43『海軍公報第八五號(甲配付) 内令第一五七號(軍極秘)|佐世保鎮守府 軍艦 雲龍 右帝国軍艦籍ヨリ除カル|昭和二十年二月十日 海軍大臣』
  28. 「海上護衛戦」 大井篤著(株) 朝日ソノラマ
  29. 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9、p78。
  30. #軍艦雲龍戦闘詳報p.12