杉山寧
杉山 寧(すぎやま やすし、1909年10月20日 - 1993年10月20日)は、日本画家、日本芸術院会員、文化勲章受章者。
来歴
東京府東京市浅草区浅草西三筋町(現在の東京都台東区三筋一丁目、二丁目西側辺り)に文房具店を営む杉山卯吉の長男として生まれる。本籍・神奈川県。1928年、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)に入学。山本丘人、高山辰雄らと「瑠爽画社」(るそうがしゃ)を結成、日本画の革新をめざす運動に携わる。1929年、帝展に出品、1931年、美校日本画科卒、結城素明に師事。1934年、第1回日独交換留学生に選ばれベルリン大学に学ぶ。だが1938年に肺結核を病む。1943年、朝鮮満洲支那へ取材旅行。その後は病のために長く創作活動が止まる。
1947年に日展特選、1950年、日展審査員。1951年に「エウロペ」を日展に出展して本格的に画壇に復帰。以降、作風を一新した絵画を意欲的に発表する。1956年、日本芸術院賞受賞、1958年、日展評議員。1970年、日本芸術院会員。1974年、文化功労者、文化勲章受章。
1958年6月、長女・瑤子が三島由紀夫と結婚。三島は瑤子を選んだ理由について「芸術家の娘だから、芸術家に対して何ら幻想を抱いていないこと」を挙げた。実際は瑤子は見合いの際に一目で三嶋を気に入り、結婚を強く希望した為に、両家話し合いの末結婚と成った。
1969年に日展常務理事となり、1974年に日展理事長に就任。1976年、西ドイツより大功労十字勲章受章。1977年、東京国立近代美術館評議員。1991年に東京都名誉都民になる。 1956年から1986年12月号まで『文藝春秋』の表紙画を描いた。1993年の誕生日の朝に没した(生没同日)。死後、従三位に叙せられる。墓は寛永寺谷中墓地にある[1]。
戦前は日本画の技法を極めた超絶技巧で知られたが、戦後は岩絵具を用いながらも線描などの日本画の技法を一新し、メチエールにこだわった独自の作風を確立した。また。エジプトやインドなどの古代遺跡や、抽象画や裸婦など従来の日本画にはなかった題材も手掛けた。亡くなる直前まで、納得いくまで絵を修正し続けるなど完璧主義者としても知られた。
代表作品
- 「野(の)」(1933年)(東京藝術大学大学美術館):大学の卒業習作で、首席を獲得した。
- 「穹(きゅう)」(1964年)(東京国立近代美術館):スフィンクスが題材となっている。
- 「洸(こう)」(1992年)(ポーラ美術館)
著書・画集
- 杉山寧 三彩社 1959年
- 日本の名画 29 杉山寧 講談社 1974年
- 現代日本の美術 6 杉山寧 座右宝刊行会編 集英社 1976年
- 日本の名画 26 杉山寧 中央公論社 1977年
- 杉山寧自選画集 芸術新聞社 1989年
- 画作の余白に 美術年鑑社 1989年
- 現代の日本画 8 杉山寧 学習研究社 1991年
- 杉山寧 日本経済新聞社 1991年(日経ポケット・ギャラリー)
- 杉山寧素描聚成 小学館 1992年