屋久杉
屋久杉(やくすぎ)は、屋久島の標高500メートルを超える山地に自生するスギ。狭義には、このうち樹齢1,000年以上のものを指し、樹齢1,000年未満のものは「小杉(こすぎ)」と呼ぶ[1]。また屋久島で植林された杉を「地杉(じすぎ)」と呼ぶが、樹齢100年以内の小杉を指す語としても用いられる。こう使い分けて呼ぶのは主に地元で、昔から生活に密着した材料だったためである。テンプレート:要出典、また工芸品でも有名とされる。
概要
一般に、杉の樹齢は長くても500年程度であるが、屋久杉は桁外れに長い。栄養の少ない花崗岩の島に生える屋久杉は成長が遅く木目が詰っており、降雨が多く湿度が高いため、樹脂分が多く腐りにくい特徴を持つ。そのため樹木の寿命が長いといわれ、樹齢2,000年以上の大木が多い。縄文杉や紀元杉、ウィルソン株が有名である。縄文杉に至る標高約1,000メートルにあった「翁杉(おきなすぎ)」と呼ぶ樹齢約2,000年とされた杉が2010年9月10日地上約3メートルの高さ部分で折れ倒木として確認された。樹高23.7m、幹廻り12.6mで縄文杉に次ぐ太さで枯死していない屋久杉であったが、倒木後は一部に空洞もみつかった[2]。
伐採
1560年頃大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の改築にあたって屋久島からスギ・ヒノキ材が運ばれたことが同神宮の石碑に記されている。これが記録に残る初の屋久杉の伐採利用である。
また1587年の九州制圧後、石田三成が島津義久に命じて屋久島の木材資源量の調査を行っており、1590年頃に小豆島の大型船11隻が京都方広寺大仏殿造営のための屋久杉材を大阪へ運んだとされる。
江戸時代に入り、屋久島出身で薩摩藩に仕えていた日蓮宗の僧で儒学者の泊如竹が屋久島の島民の貧困を目にして屋久杉の伐採を島津家に献策したとされ、1640年頃から山岳部奥地の本格的な伐採が始まった。
屋久杉は船材・建築材など様々な形で製品化されたが、多くは平木と呼ばれる屋根材に加工され、出荷された。屋久杉は薩摩藩により専売制のもとにおかれて販売が独占された。島民は薩摩藩に年貢として主に平木を納め、またそれ以外の様々な産物も平木に換算して石高が計算され、いわば「平木本位制」ともいうべき経済統制がおこなわれた。
また、年貢の割り当て分以外の屋久杉は、米その他の品物と交換される形で薩摩藩に買い上げられ、島民の収益となった。
明治時代、1873年の地租改正で島の90%以上が国有地とされ、島民による伐採が制限された。これを不服とし屋久島側が国有林の払い戻し(返却)を求めて裁判を起こすが敗訴した。しかしこれによる島の経済的困窮が問題となり、1921年に山林局鹿児島大林区署によって「屋久島国有林経営の大綱」が発令された。大綱の内容は次の4点。
判決で国有林化が決定し、屋久杉伐採は本格的に開始される。
2001年、各種の保護区以外の国有林では伐採可能な林分を切り尽くし、天然屋久杉伐採は終了した。
土埋木
天然スギの伐採が終了した現在、土産物などの加工に使われている屋久杉は土埋木と呼ばれる物である。伐採の跡の切り株や台風などで倒れた倒木も含まれる。
脚注
- ↑ 独立行政法人林木育種センター「林木遺伝資源情報 第5号」2004年1月
- ↑ 共同通信「樹齢2千年の屋久杉が倒れる 縄文杉に次ぐ巨木」2010年9月12日