多目元忠
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テンプレート:出典の明記 多目 元忠(ため もとただ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。後北条氏の御由緒衆。北条氏康の軍師でもある。周防守。多目元興の子。
多目氏(武蔵国豊顕寺ゆかりの多米氏と同一ともいう)は、後北条氏の初代・伊勢盛時(北条早雲)からの北条氏の協力者であり、北条氏初期の家臣団「草創七手家老」の一家でもある、古参の重臣の家柄である。山内上杉家・古河公方などの関東の有力者が連合して北条氏と戦った河越夜戦で活躍。北条氏康が戦場で敵中に突出した際に独断で退却の号令をかけ、のちに氏康から感謝された。この戦いののちに北条五色備の内、黒備えを任せられたという。家中で北条綱成と双璧をなした北条綱高も、元忠に軍学を学んだとされる。
その後、武田氏の駿河からの進軍を防ぐなど、北条軍の中核として各地を転戦する。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に豊臣軍の大軍に居城を攻められ、多勢に無勢で敗れて討死した人物に「多目周防守」がいたといわれるが、この人物が元忠と同一人物かどうかは不明である。テンプレート:Japanese-history-stub