皇民党事件
皇民党事件(こうみんとうじけん)は自民党の総裁指名に関し、1987年に起こった事件。1992年の東京佐川急便事件に絡み、その公判中に明らかになる。“総理誕生に闇勢力が関わった”として問題になった。
概説
当時、総理大臣だった中曽根康弘から受ける次期総裁の指名をめぐって安倍晋太郎、宮澤喜一と争っていた竹下登が、暴力団とつながりが深いとされる右翼団体である日本皇民党から執拗に「日本一金儲けのうまい竹下さんを総理にしましょう」と「ほめ殺し」を受ける。「ほめ殺し」とは、右翼団体が行う街宣活動の一形態で、攻撃対象を徹底的に誉め称える嫌がらせの街宣活動を行い圧力を加える。なお、この事件を取材したジャーナリストの岩瀬達哉によると、ほめ殺しなる言葉を定着させた人物は、浜田幸一だとされている。岩瀬が竹下の生い立ちや、同事件の取材をまとめた「われ、万死に値す」の文中で、浜田が、竹下の意を受け、工作資金8億円を持参し皇民党を訪問するものの、一顧だにされず、激昂した浜田が発した言葉が、「お前らのやってることは、ほめ殺しじゃないか」だったとのことである。
皇民党が竹下を攻撃した理由は、竹下が「闇将軍」とあだ名されていた元首相の田中角栄に叛旗を翻す形で竹下派経世会を旗揚げしたことに「義憤」を感じたためといわれる。竹下は自らのコネを使って攻撃を止めさせようとしたが失敗した。これに対し(右翼とのコネがある)安倍派や中曽根派からは「右翼も処理できないとは、竹下は首相の器ではない」と批判されていた。竹下はこのことで円形脱毛症になったともいわれる。竹下自身も「後継総裁は無理だ」とこぼしたとされているがその後、金丸信、小沢一郎らが暴力団とのつながりが強い東京佐川急便社長の渡辺広康に仲介を依頼し、渡辺は広域暴力団・稲川会に皇民党との仲介を依頼、稲川会と皇民党との2度目の会談で竹下が田中邸に直接謝罪に行くことを条件に、ほめ殺しをやめることで両者の話し合いがついた。竹下は小沢一郎と共にマスコミが詰めるなか謝罪のために田中邸へ訪問をしたが、長女の田中真紀子に門前払いされ大恥をかいた。しかし、このことを境に嫌がらせは止んだ[1]。 金丸信はほめ殺し中止工作に石井進・稲川会二代目会長ら暴力団幹部の関与を認めた上で臨床尋問では「川に落ちた所を助けて貰ったのだからそれが暴力団だろうが感謝するのは当然だ」と述べている。後の佐川事件公判や一部報道などでは金丸、小沢が石井等を訪問した際に金丸や小沢が石井らに深々と頭を下げた等と伝えられた。
竹下は後の証人喚問で事件について一部事実関係については否定しつつも、「万死に値する」として道義的責任を認めている。しかしながら議員辞職については頑なに拒否した。
この事件を受けて、国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律が制定された。