ビスマルク海海戦
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | ビスマルク海海戦 | |
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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | ファイル:Burning Japanese Ship (Battle Of The Bismarck Sea).jpg テンプレート:Small | |
戦争:太平洋戦争 / 大東亜戦争 | |
年月日:1943年3月2日~1943年3月3日 | |
場所:ビスマルク海 | |
結果:連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1889 | テンプレート:USA1912 テンプレート:Flagicon オーストラリア |
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官 | |
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:Flagicon2木村昌福少将 | テンプレート:Flagicon2エニス・ホワイトヘッド大佐 |
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ビスマルク海海戦(ビスマルクかいかいせん、Battle of Bismarck Sea)は第二次世界大戦中の1943年3月2日から3日に、ビスマルク海からダンピール海峡にかけての海域で連合国軍が日本軍の輸送船団を爆撃機で攻撃した戦い。日本軍の輸送船団は壊滅した。
背景
1943年2月1日から7日にかけて日本軍はガダルカナル島から撤退した(ケ号作戦)。同時期、連合軍はニューギニア島方面でも攻勢に出でおり、1月2日には東部のブナが玉砕した。日本軍は連合軍の次の攻撃目標と思われるラエに陸軍第51師団を送り侵攻に備えることにした。この輸送作戦は第八十一号作戦という。船団の上空警戒は、ラバウルとカビエンの海軍80機、陸軍40機が交替で行う計画であった[1]。
一方、連合軍も日本軍がラエ地区の防御を固めると考え、考案した反跳爆撃(skip bombing)という方法で輸送の阻止を試みた。これは低空で爆弾を投下して海面でジャンプさせ目標に命中させる方法で、水平爆撃に比べ命中率が格段に高い。反面、低空飛行することで対空砲火を受ける確率も高くなるが、機首、両翼に機銃を増設して機銃を掃射しながら突入し敵艦の機銃手を薙倒すことで艦からの反撃を封殺する方法も考案していた。また基本的に対空装備の乏しい駆逐艦を日本軍が輸送の護衛に使用するという情報も連合軍は入手していたとされる。連合軍は3月5日ごろに日本軍がラエに上陸すると判断し、アメリカ陸軍航空隊とオーストラリア空軍は航空機を集結して3月1日には攻撃準備を完了した。
日本軍の作戦では、2月28日にラバウルを出航し3月3日にラエにつく予定であった。しかし、計画は杜撰であり、事前の敵航空戦力の撃滅戦すら、たった数機の夜間爆撃がラビ及びポートモレスビーに対して行われただけであり、しかも天候不良により完全に失敗していた。このような状況に護衛部隊の第三水雷戦隊参謀であった半田仁貴知少佐が、八一号作戦計画担当であった第八艦隊作戦参謀神重徳大佐に「この作戦は敵航空戦力によって全滅されるであろうから、中止してはどうか」と申し入れたところ、神大佐は「命令だから全滅覚悟でやってもらいたい」と言い放ったという。このことは日本軍側の作戦計画が的確な敵情判断に基づくものではなく、作戦の必要性のみに拠った計画で作戦成功を幸運に期待する無謀以外の何者でもなかったことを示している。
戦闘
日本軍の輸送船8隻と護衛の駆逐艦8隻(木村昌福少将)からなる輸送船団は、2月28日に予定通りラバウルを出航した。3月1日、連合軍のB-24爆撃機がビスマルク海で船団を発見、攻撃隊を送るが天候不良のため船団を発見できなかった。
3月2日、B-17爆撃機10機が船団を水平爆撃で攻撃し、輸送船旭盛丸が沈没。駆逐艦雪風、朝雲が旭盛丸に乗っていた兵員を救助しラエへ向かった。午後にはB-17爆撃機8機による攻撃があり、運送艦野島が損傷した。雪風、朝雲は日没後ラエに到着し、兵員を揚陸後船団護衛に戻った。
3日、船団上空には20機ほどの零式艦上戦闘機が警戒にあたっていた。午前、まずブリストル・ボーフォート10機が攻撃を試みたが零戦に阻止された。次いで連合軍の大編隊が襲来。ブリストル・ボーファイター13機が低空で進入し機銃掃射、B-17爆撃機13機が高高度から爆撃した。これによる輸送船の被害はなかったが、零戦隊はB-17隊迎撃のため高度を上げ、低空への対処が出来なくなる[2]。この時、B-25爆撃機13機が中高度で水平爆撃、続いてB-25爆撃機12機が低空で反跳爆撃をおこなった。その後A-20攻撃機12機、B-25爆撃機6機がさらに反跳爆撃をおこなった。この攻撃で輸送船7隻と駆逐艦3隻が被弾、建武丸(三光汽船:953総トン)、愛洋丸(東洋汽船:2,746総トン)および旗艦の駆逐艦白雪が沈没、木村司令官は機銃掃射により重傷を負った。生き残った駆逐艦部隊は、沈没艦の生存者活動を攻撃後しばらく行っていた。しかし、10時30分頃、敵機再来襲との報が入り、木村司令官は「救助作業中止、全艦一時避退せよ」との命令を下す。
無傷であった駆逐艦朝潮は、単艦で野島救助に向かった。野島に近づいたところ、近くに航行不能となった荒潮が漂流しており、朝潮は両艦の生存者を救出して避退に移った。直後にB-17爆撃機16機、A-20攻撃機12機、B-25爆撃機10機、ブリストル・ボーファイター5機、P-38戦闘機11機が船団を攻撃、神愛丸(岸本汽船:3,793総トン)、太明丸(日本郵船:2,883総トン)、帝洋丸(帝国船舶:6863総トン、元ドイツ船Saarland)、野島が被弾沈没した。被弾し航行不能となっていた大井川丸(東洋海運:6,494総トン)はその夜、米魚雷艇の攻撃で、駆逐艦荒潮と。時津風は、その夜に「雪風」が乗員を救助し船体は放棄され、荒潮は翌日B-17の爆撃によって500ポンド爆弾が第一煙突に命中。時津風は同日午後に米軍機の攻撃でそれぞれ撃沈された。健在だった朝潮も、付近を行動していた日本軍艦船の中で唯一行動可能だったため、集中攻撃を受けて終に航行不能となり、総員退去に追い込まれた。朝潮の乗艦者のうち一部は3日間の漂流の後に日本軍に救助されたが、艦長吉井中佐のほか、「荒潮」艦長久保木中佐、第八駆逐隊司令佐藤康夫大佐以下299名は戦死した。後の海戦の際にも起こったが、連合軍は海に漂う日本軍将兵を機銃掃射で虐殺し、完全に人員、輸送船団を破壊した。
日本海軍は、生存者救助のため潜水艦「呂101」と「呂103」を派遣し、うち「呂101」が45人を収容したものの、「呂103」は座礁事故を起こして引き返した[3]。
結果
日本軍は輸送船8隻すべてと駆逐艦4隻を撃沈され、兵員約3,000名、物資約2,500トンを失い輸送作戦は失敗した。 これをダンピールの悲劇とも呼ぶ。
作戦失敗の原因は直掩の戦闘機隊が中高度に配置されていたため、低空から進入する連合軍機に対処できなかったことなどがあげられる。この日、空母「瑞鳳」戦闘機隊は15機が戦闘に参加し、2名が戦死した[4]。しかし、根本的な原因としては、第八艦隊司令部の作戦計画の杜撰さに拠るものである。この後、場当たり的な作戦指導は各地で幾度と無く行われ、日本海軍は衰退への道を加速度的に転がり落ちていくこととなる。
脚注
参考文献
- 佐藤和正『太平洋海戦2 激闘篇』 講談社、1988年 ISBN 4-06-203742-4
- 増田禮二『怨み深し血の海、ビスマルクの海』
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