ブルハーヌッディーン・ラッバーニー
ブルハーヌッディーン・ラッバーニー برهان الدين ربانى | |||
ファイル:Burhanuddin Rabbani - VOA - 11302001.jpg |
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任期 | 1992年6月28日 – 1996年9月27日 | ||
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任期 | 1996年9月27日 – 2001年11月13日 | ||
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任期 | 2001年11月13日 – 12月22日 | ||
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出生 | 1940年 25x20px アフガニスタン王国、バダフシャーン州ファイザーバード | ||
死去 | 2011年9月20日 テンプレート:Flagicon アフガニスタン、カーブル |
政党 | イスラム協会
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テンプレート:Sister ブルハーヌッディーン・ラッバーニー(ダリー語:テンプレート:翻字併記、1940年 - 2011年9月20日)は、アフガニスタンの政治家。タジク人。イスラーム主義系政治組織テンプレート:仮リンクの最高指導者。初代アフガニスタン・イスラーム国大統領(在任:1992年 - 2001年)[1]。日本ではブルハヌッディン・ラバニと表記されることもある[2]。
生涯
大統領就任まで
1940年(1942年とも)、ムハンマド・ユースフの息子としてバダフシャーン州ファイザバードに生まれる。地元の学校を卒業後、カーブルのアブ・ハニファ神学校に進んだ。同校を終えた後、イスラム法とイスラーム法学を学ぶために、カーブル大学イスラーム法学部に進学した。在学中に優れた学徒として知られるようになった。1963年に卒業すると、そのまま同大学の講師として迎えられた。さらに学問を究めるために、カイロのアル=アズハル大学に留学し、イスラーム哲学の修士号を取得した。1969年にはトルコのアンカラ大学にも3ヶ月間留学した。
1968年、アフガニスタンに帰国したラッバーニーは、ジャマーアテ・イスラーミーの理事会から大学生の組織化を命ぜられたが、早くも1972年には、イスラームに関する深い学識、人望、活発な宗教活動を認められ、15人で構成される理事会によってジャマーアテ・イスラーミーの最高指導者に選出された。
1974年春、このような活動が時のダーウード政権によって目をつけられ、逮捕されそうになるが、学生の手引きによって難を逃れて地方に身を潜めた。後にパキスタンに脱出。1970年代末から本拠地をイランのマシュハドに置き、アフガニスタン人民民主党に対する闘争を開始。1980年7月から再びパキスタンを本拠地とした。同拠点から、ジャミアテ・イスラーミーのムジャーヒディーンによるソ連・アフガン戦争を指揮した。1989年から1992年、ペシャーワルの亡命政権の外相を務めた。ラッバーニー派は、1992年にカーブルへ最初の入城を果たしたムジャーヒディーン部隊となった。
大統領就任後
ナジーブッラーの共産主義政権の崩壊にともなってラッバーニーは帰国、暫定指導評議会議長となり、1992年6月28日にアフガニスタン・イスラーム国の大統領に就任した。しかし、有名無実の首相グルブッディーン・ヘクマティヤール率いるテンプレート:仮リンク(ヘクマティヤール派)とジャマーアテ・イスラーミーとの深刻な確執をはじめ、各派の争いは瞬く間に激化し、アフガニスタンは内戦状態に陥いった。各派による内戦の間にカーブルは壊滅的な打撃を被った。
1996年9月、ターリバーンのカーブル攻略によってラッバーニーらはカーブルから脱出した。しかしその後も、北部同盟と称された反ターリバーン勢力の支持によって戦闘を継続した。1997年6月に、北部同盟政府の大統領に就任した。アメリカ同時多発テロ事件後、ターリバーンをアフガニスタンから排除するための、アメリカ合衆国とNATOによる軍事行動への協力にラッバーニーは合意した。共同作戦によってカーブルは陥落し、ラッバーニーは大統領の座に返り咲いたが、アフガニスタン暫定行政機構の発足に伴い、暫定行政機構の議長に選出されたハーミド・カルザイに権限を移譲した。
カルザイ政権においては主要ポストは得られなかったものの、国内で議員として政治活動を継続し、2007年3月には野党同盟「国民戦線」の党首となった。
死去
ターリバーンとの和解交渉担当の高等和平評議会議長を務めていたが、2011年9月20日、自宅への自爆攻撃により死亡したと伝えられた[2]。ターリバーンがラッバーニーの暗殺について犯行を認めた。
家族
妻帯。2男(サラーフッディーン、ジャマリ)を有する。長男のサラーフッディーンは元駐トルコ大使で、父の死後、後を継いで高等和平評議会議長を務めている[3]。
娘婿にアフマド・ズィヤ・マスードがいる。
脚注
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ムハンマド・オマル
(首長国首長)
|style="width:40%; text-align:center"|25x20px アフガニスタン大統領
2001年
|style="width:30%"|次代:
ハーミド・カルザイ
(暫定行政機構議長)
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
シブガトゥッラー・ムジャッディディー
(臨時)
|style="width:40%; text-align:center"|25x20px アフガニスタン・イスラーム国大統領
1992年 - 1996年
|style="width:30%"|次代:
ムハンマド・オマル
(首長国首長)
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
(創設)
|style="width:40%; text-align:center"|25x20px アフガニスタン・イスラーム国
(アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線)大統領
1996年 - 2001年
|style="width:30%"|次代:
(解散)
- 転送 Template:End
- ↑ ただし、ラッバーニーが大統領を務めたアフガニスタン・イスラーム国は次のような変遷をたどった。
- 1992年 - 1996年は統一政権。
- 1996年 - 2001年はターリバーン政権(アフガニスタン・イスラム首長国)と併存した北部同盟(アフガニスタン救国・民族イスラーム統一戦線)政権。
- 2001年11月13日のターリバーン政権の崩壊にともない、統一政権に復帰。
- 2001年12月5日のボン合意にともなって設立されたアフガニスタン暫定行政機構(ハーミド・カルザイ議長)に政権を譲り渡す。
- ↑ 2.0 2.1 テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite web