水原秋桜子
水原 秋桜子(みずはら しゅうおうし、1892年(明治25年)10月9日 - 1981年(昭和56年)7月17日)は、日本の俳人、医学博士。水原秋櫻子とも表記する。本名は水原豊(みずはら ゆたか)。別号喜雨亭。
経歴
東京市神田区猿楽町(現・東京都千代田区神田猿楽町)に代々産婦人科を経営する病院の家庭に生まれる。獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)、第一高等学校を経て1914年に東京帝国大学医学部へ入学。血清学研究室を経て1918年同医学部卒業。1928年に昭和医学専門学校の初代産婦人科学教授となり、講義では産科学を担当、1941年まで務めた[1]。また家業の病院も継ぎ、宮内省侍医寮御用係として多くの皇族の子供を取り上げた。
俳人としては、まず学生時代に渋柿派の緒方春桐から教えを請い、その後松根東洋城、さらにのち高浜虚子に師事し『ホトトギス』に参加。1922年に富安風生、山口青邨らと東大俳句会を再興。『ホトトギス』時代には、写生を基礎としながら短歌的な叙情表現を導入して主観写生を樹立、山口誓子、阿波野青畝、高野素十とともに『ホトトギス』の「四S」(よんエス)と呼ばれ、同誌の黄金時代を築いた。しかしやがて客観的写生を堅持する虚子とそれを支持する素十と対立し、1931年に主宰誌『馬酔木』に「『自然の真』と『文芸上の真』」(昭和6年10月号)を発表し『ホトトギス』から独立。これをきっかけにして青年層を中心に反伝統、反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動が起こった。
主宰誌の『馬酔木』には、『ホトトギス』の沈滞したムードを嫌った五十崎古郷と門弟の石田波郷や若手の俳人達が集い、さらに加藤楸邨、山口誓子なども加わり、やがてホトトギスと対抗する一大勢力となった。この頃、『土上』を主宰し新興俳句に傾いていた10歳年上の嶋田青峰に対し、「天地眼前にくずるるとも無季俳句を容認すべきではありません」と忠告を発した[2]。その甲斐もなく、青峰は1941年(昭和16年)2月5日に新興俳句弾圧事件で逮捕されてしまう[3]。
1962年(昭和37年)俳人協会会長に就任。1967年(昭和42年)には勲三等瑞宝章を叙勲する。1978年11月18日の昭和大学創立五十年記念式典で特別功労者として表彰。式典の記念品のひとつに昭和大学五十年を詠んだ秋桜子の句の色紙が配られた。この句の句碑は大学キャンパスの中庭に建てられている[4]。1981年7月17日、急性心不全のため88歳にて死亡。墓は東京都豊島区の都営染井霊園にある。
作品
- 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々
- ふるさとの沼のにほひや蛇苺
- 梨咲くと葛飾の野はとの曇り
- 来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり
- 瀧落ちて群青世界とどろけり
などの句がよく知られている。清新な叙情と豊かな語彙をもって自然を詠んだ明朗な句が多い。一時期は連作を好んで作りまた指導したが、のちに一句の独立性を弱めると考えるようになり廃止した。吟行による句も多く、戦後は一段と自然諷詠に身を入れ、同時に評論や随筆なども多く発表した[5]。
また秋櫻子は中学時代には野球に熱中しており、晩年も西武ライオンズのファンとして熱心に野球観戦もしていた[5]。「ナイターの光芒大河へだてけり」など、ナイター(夏の季語)を詠んだ句も多く残している。
代表的句集
家族・親族
妻は国文学者・吉田彌平の長女[6]。彌平の次男が山の上ホテルの創業者・吉田俊男であり[6][7]、次女が歴史哲学者の由良哲次に嫁いでいるため[6]、俊男と哲次はともに秋櫻子の義弟にあたる。またイギリス文学者の由良君美は哲次の長男であり、下河辺牧場代表の下河辺俊行は吉田俊男の娘婿であるため[7]、君美と下河辺はともに秋櫻子の義理の甥にあたる。
註
参考文献
- 嶋田洋一(1966)“「早稲田俳句」まかり通る”俳句(角川書店).15(10):147-153
- 村山古郷『昭和俳壇史』角川書店、1985年10月25日、308pp. ISBN 4-04-884066-5
- 齋藤慎爾、坪内稔典、夏石番矢、榎本一郎編 『現代俳句ハンドブック』 雄山閣、1995年
- 『財界家系譜大観 第6版』 現代名士家系譜刊行会、1984年10月15日発行、432頁
- 『財界家系譜大観 第7版』 現代名士家系譜刊行会、1986年12月10日発行、382頁
- 『財界家系譜大観 第8版』 現代名士家系譜刊行会、1988年11月15日発行、404頁
- 『大正人名辞典 II』 日本図書センター、1989年2月5日発行