ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯)
第3代ビュート伯ジョン・ステュアート(John Stuart, 3rd Earl of Bute,1713年5月25日 - 1792年3月10日)は、イギリスの政治家。議院内閣制になってから初のトーリー党の首相(在任:1762年5月26日 - 1763年4月16日)。国王ジョージ3世の信任が篤く、事実上は1760年にジョージ3世が即位したころから大きな発言力を握っていた。スコットランド人であり、植物愛好家だった。父はスコットランド王ロバート2世の庶子の末裔でスコットランド貴族の第2代ビュート伯ジェイムズ・ステュアート、母はキャンベル氏族につらなるアーガイル公アーチボルド・キャンベルの娘である。
1723年、父の死によりビュート伯の地位を引き継ぎ、イートン・カレッジおよびオランダのライデン大学で学び、1736年にメアリー・ワートリー・モンタギューと結婚した。この結婚により広大な領地が転がりこんでくることになった。1737年に一度貴族院議員に選出されるが、当時は政治活動よりも植物学に興味を示しており、長続きしなかった。
ビュート伯が政治に深く関わり始めるのは、1745年のジャコバイトの反乱によって、スコットランドからロンドンに居を移したことに始まる。皇太子ジョージ(後のジョージ3世)らと親睦を持つようになり、家庭教師となって篤い信任を得た。ジョージ3世が即位すると、王の信任を失ったニューカッスル公をさしおいて、宮廷内で事実上の首相となった。七年戦争における対スペイン政策を利用して次第に大ピットやニューカッスル公を追い落とし、1762年に正式に首相となった。
ビュート伯の首相就任は、それまで続いていたホイッグ党優越の時代の終焉を印象づけた。また彼はパリ条約で七年戦争を、イギリスに有利なかたちで終結させた。しかし、世論から「もっと有利な講和が可能だったのではないか」等と批判され、庶民院議員ジョン・ウィルクスらから攻撃され始めた。もとよりビュート伯はスコットランド人だったため不人気であり、当時の新聞などのメディアの攻撃の恰好の矛先であった。そうした中、七年戦争講和後の財源としてリンゴ酒への消費税導入が議会を通過して国民のさらなる反発をかうと、ビュート伯には辞任しか道は残されていなかった。国王の信任はいまだ残っていたが、それも1765年ごろには失われ、政界から隠退していった。
隠退後は植物学の研究を続け、1792年に世を去るとスコットランドのビュート島に葬られた。息子ジョンはビュート伯位を継承、1796年に侯爵に昇格した。
ツバキ科の中のナツツバキ属(Stewartia/Stuatia、代表的なものはナツツバキ(Stewartia pseudocamellia))は、ビュート伯の姓から取ったものである。
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