陳慶之
陳慶之(ちん けいし、484年 - 539年)は、中国の南北朝時代、梁の武将。字は子雲。義興郡国山(江蘇省宜興)出身。梁に侵入する北魏に対して、たびたび勝利した。諡は武侯。配下の軍は全員が白袍を身に纏っていたと伝わる。
人物
幼いころから、斉の有力者の蕭衍に仕えていた。蕭衍が梁を興すと、陳慶之はそのまま梁に仕えることになる。その後、525年には宣猛将軍・文徳主帥に、526年には宮直閤・関中侯に昇進。527年には曹仲宗、韋放らと共に出征した際に、15万の軍を相手に勝利する作戦を実行するなどの武功を重ねた。
529年、北魏の北海王である元顥が梁に亡命してきた時、武帝から彼を北魏に送るよう命じられる。陳慶之は、指揮下の兵7000人のみを率いて洛陽を陥落させることに成功した。敵国である北魏の国内が反乱などにより混乱し、著しく弱体化していたこともあるとはいえ、これほど少数の兵で北伐を成功させた例はない。洛陽まで47戦、すべてに勝利し32城を陥落させた。しかし、北海王が洛陽の防備を固めず、さらに陳慶之の功績を警戒して彼を遠ざけたことから、北魏の爾朱栄の反撃を許してしまう。陳慶之は善戦したが、はるかに兵力が劣っていたため軍は全滅し(『梁書』では渡河の途中で洪水に遭い全滅したとある)、陳慶之自身は僧に変装して帰還した。梁の武威を轟かせたとの武帝の判断により、右衛将軍・永興県侯に封ぜられ、邑1500戸を領した。
その後も武将として戦い続け、徐州で乱を起こした蔡伯龍らを討伐(年代不明)、530年には都督南北司西豫豫四州諸軍事・南北司二州刺史として前戦に赴き、北魏の潁州刺史の婁起を破る、反乱を起こした侯景を536年に撃退するなどの戦果を挙げている。その一方、『資治通鑑』などには東魏の尭雄と何度か交戦し、敗北した記述も残されている。また、530年には田を6千頃開墾して2年後には倉を一杯にしたとの記述もあり、行政手腕にも長けていたとされる。
評価
陳慶之は、その武功からもわかる通り、指揮官としての能力は卓越していたが、個人としては馬術も武芸も得意ではなかったという[1]。
洛陽攻略の際、童謡で「将軍達で固く守らないものはなく、大軍であっても白袍を避ける」(原文:大將名師莫自牢、千軍萬馬避白袍)と謡われたとする記述が残る。
『梁書』には廉頗・李牧・衛青・霍去病に次ぐと記され、その将才を高く評価されている。また、『侍従軍神』には毛沢東が高く評価していたと記述されている。