フランス6人組
テンプレート:Portal クラシック音楽 フランス6人組(フランスろくにんぐみ 仏:Les Six)は、20世紀前半フランスで活躍した作曲家の集団。単に「6人組」とも呼ばれる。全員で活動したのはたったの1回であった。
ロマン派音楽や印象主義音楽とは一線を画し、新古典主義音楽に含まれる傾向を示す。
彼等は一つのグループであっても、誰一人として「同じ音楽的傾向は持ち合わせていない」と語っていたものの、今日の音楽学者や批評家は彼らの音楽を「家族的作風」というひとつの傾向にまとめている。また、常に新しい音楽を提案していたグループとしても知られ、全音階(ドレミファソラシド)に最後の可能性を求めた音楽家集団でもあった[1]。
フランス6人組の作曲家
- ルイ・デュレ(Louis Durey, 1888年 - 1979年)
- アルテュール・オネゲル(Arthur Honegger, 1892年 - 1955年)
- ダリウス・ミヨー(Darius Milhaud, 1892年 - 1974年)
- ジェルメーヌ・タイユフェール (Germaine Tailleferre, 1892年 - 1983年)
- フランシス・プーランク(Francis Poulenc, 1899年 - 1963年)
- ジョルジュ・オーリック(George Auric, 1899年 - 1983年)
結成の経緯
オネゲル、ミヨー、タイユフェールの3人はパリ音楽院の同期生であり、デュレ、オネゲル、オーリックはエリック・サティらと「新しい若者のためのグループ(ヌヴォー・ジュンヌ)」を結成していた。1917年頃にはサティの『パラード』に感銘を受けたプーランクが合流する。
プーランクによれば、当時ヴィユ・コロンビエ劇場の運営を任されていた声楽家のジャーヌ・バトリが企画した、上記6人の作曲家のコンサートが「6人組」成立の発端となった[2]。また、彼らはモンパルナスの画家たちのアトリエにおいて、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、アメデオ・モディリアーニらと共同で、音楽と美術のコラボレーション「竪琴とパレット」を企画するなどの活動を行った[2]。
彼らとつながりが深かった詩人ジャン・コクトーは、『雄鶏とアルルカン』(1918年3月)、『パリ・ミディ』紙(1919年)において印象派にかわる新しいフランス音楽の必要性を説き、コクトーの影響を受けた批評家のテンプレート:仮リンクは彼らを「6人組」と名づけ、1920年1月16日付の『コメディア』誌に「ロシア5人組、フランス6人組、そしてエリック・サティ」を掲載し、この名称を世に広めた[3]。
メンバーとしての創作活動は少なく、共同制作によるピアノ小品集『6人組のアルバム』(1920年)、デュレを除く5人の合作による『エッフェル塔の花嫁花婿』(1921年、バレエ・スエドワの委嘱による)などがあるのみである。
出典
関連項目
外部リンク/参考文献
- アンリ・コレ Henri Collet (1885-1951) 六人組の名付け親
- オルネラ・ヴォルタ編著「サティとコクトー 理解の誤解」大谷千正訳、新評論、1994年。