太田城 (常陸国)

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テンプレート:Infobox 太田城(おおたじょう)は常陸国にあった城。現在の茨城県常陸太田市に位置し、JR常陸太田駅から北方へ約1.7kmの高台(現在の太田小学校)に本郭が存在したとみられる。関東七名城の一つ。別名:佐竹城、舞鶴城、青龍城。

歴史・沿革

この城の起源は明らかではないが、天仁2年(1109年)に藤原通延藤原秀郷の四世)が、下野国から太田郷に入り、太田大夫と称して築城したのが始まりであるという。さらに、新羅三郎義光の孫・源昌義後三年の役1051年から1062年)の功により領有することになった地名をとって佐竹氏を称したのち、二代佐竹隆義は当時の太田城主藤原通盛(通延の孫)を服属させて小野台地(瑞竜中学校周辺)に移して小野崎氏を名乗らせ、自らは太田城に入った。入城の日、太田城の上空を鶴が舞いながら飛んだので「舞鶴城」と名づけたという。佐竹氏代々の居城であったが戦国最末期の当主佐竹義宣は水戸城に本拠を移す。その後徳川家康の一国一城令により廃城となったが、城の機能は一部残され「太田御殿」と呼ばれ水戸藩の家老の中山氏が管理することとなった。

歴代城主

構造

本郭は現在の太田小学校一帯。 二の郭は内堀町から若宮八幡宮一帯。 三の郭は栄町の大部分で北側が搦手とよばれている。 これらの郭は明治の初期に国から町の有志に払い下げられ、土塁をくずし堀を埋めて宅地や道路が造られたが、大正末期まで土塁や郭の一部が残っていた。

参考文献

  • 常陸太田市の歴史散歩(1986年)

関連項目