徳川治察
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徳川 治察(とくがわ はるさと / はるあき、宝暦3年10月7日(1753年11月1日) - 安永3年9月8日(1774年10月12日)は、田安徳川家の2代当主。
初代当主徳川宗武の五男。母は近衛家久の娘森姫(宝蓮院)。官位は従三位左近衛権中将。幼名は寿麻呂、寿丸。
明和7年(1770年)吹上庭にて馬術を上覧し、褒美として「広瀬」という馬を貰った。明和8年(1771年)父宗武の死により家督を継ぐが、安永3年(1774年)8月28日、田安邸において死去した。
父に似て文学や国学に通じ、編著『泣血集話』、詩文遺稿集『克一堂稿』を残した。
妻子ともにいなかった。ただし、当時田安邸には陸奥白河藩主松平定邦と養子縁組が整ったばかりの実弟松平定信が暮らしていた。そのため、同年9月1日、母宝蓮院は、大奥の老女・高岳に定信による田安家相続の希望を伝えた。しかし9月7日、側衆稲葉正明から御三卿の創立者である将軍徳川吉宗の意向、すなわち御三卿の当主に子供のいない場合は相続は認められないことを伝えられた。なお、治察の死亡は同年9月8日に公表された。その後、天明7年(1787年)に一橋家の徳川治済の五男斉匡(徳川家斉の弟)が相続するまでの14年間、田安家は明屋形(無当主)の状態に置かれた。
経歴
※日付=旧暦