来民開拓団
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来民開拓団(くたみかいたくだん)は、満州開拓団の一つで、熊本県鹿本郡来民町の被差別部落M地区の住人を中心に組織されたものである。入植地はハルピンの南西部。入植戸数は82戸、316人[1]。なお、入植者の3割は被差別部落出身ではなかった[2]。
歴史的意義
日本史上唯一の、国策によって行われた部落出身者中心の海外移住である。
長野県上高井郡の被差別部落でも全戸数41戸の満州移住が計画されたことがあるが、人口185人中103人が老人や子供で占められており、開拓団としては労働力が不足していたため、移住は実現しなかった[3]。
背景
もともとM地区では水平社よりも中央融和事業協会の影響が強く[4]、この地区には融和運動(戦前の日本で盛んだった社会運動で、右翼や富裕層の力を借りて部落の地位向上を目指そうとするもの)の有力者がいた。満州に渡れば差別から解放され、20町歩の地主になれるというのが移住計画の謳い文句であった。M地区出身の来民町議、松山政太郎、豊田千代蔵、豊田一次らがこれに賛成し、入植実現に至った[5]。
悲劇的結末
日本の敗戦時に軍から見捨てられ、地元民の襲撃を受け、集団自決した。徴兵などで開拓地に居合わせなかった者は助かったが、それ以外は276名中生き残ったのは宮本貞喜1名だけだった。戦後、生き残った帰国者を待ち構えていたのは、「身内殺しの部落民」という嘲笑だった。
脚注
参考書籍
- 高橋幸春 著『絶望の移民史―満州へ送られた「被差別部落」の記録』毎日新聞社
- 『潮』1971年8月号 宮本貞喜「集団自決273人の遺書配達人─実録・来民(くたみ)開拓団 (日本人の侵略と引揚げ体験=集団自決と惨殺の記録)」
- 「赤き黄土 地平からの告発来民開拓団」部落解放同盟熊本県連合会鹿本支部 旧満州来民開拓団遺族会 1988年
- 「熊本県未解放部落史研究第1集」熊本県部落史研究会、1974年
- 「部落解放研究くまもと」第24号(1992年)、第25号(1993年)熊本県部落史研究会
- 「熊本県水平社70年記念」熊本県水平社70年記念誌編集委員会、1994年
- 「西日本新聞」1990年8月11日-8月19日「墓標なき大地」