広瀬治
テンプレート:サッカー選手 広瀬 治(ひろせ おさむ、1965年6月6日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはディフェンダー(リベロ)、ミッドフィルダー(守備的MF、攻撃的MF)。
来歴
小学校3年生の時にサッカーを始め、5年生の時にクラブチームの三菱養和SCへ加入。中学は地元の与野西中学校へ進学したが中学ではサッカー部に所属せず、引き続き三菱養和でサッカーを学んだ。
高校進学の際には「全国高校サッカー選手権でプレーをしたい」という希望から東京都の帝京高等学校へ進学。1年次からレギュラーの座を掴むと同期の平岡和徳と共に中盤を形成し、1983年の高校選手権でベスト4進出。3年次の全国高校サッカー選手権では膝の故障もあって万全のコンディションではなかった[1]が、同校の3度目の全国高校選手権制覇に貢献した。
高校卒業後の1984年4月に三菱重工業へ入社し、日本サッカーリーグ1部の三菱重工業サッカー部(現浦和レッドダイヤモンズ)に入部。加入初年度から出場機会を掴むと同年10月14日のJSL第13節、本田技研戦で初得点を決めると、その後も帝京高校の先輩である名取篤らと共に三菱の中盤を支え、2部リーグへ降格となった1989-90シーズンには25アシストを記録しJSL2部のアシスト王に輝いた。
1992年にJリーグ創設に伴い浦和レッドダイヤモンズが誕生すると名取と共にチーム最古参の選手としてチームを牽引。主に攻撃的MFを務め正確なプレースキックには日本リーグ時代から定評があった[2]。が、その一方で20代後半に差し掛かった広瀬のプレースタイルを「プレーが遅い」「厳しいプレッシャーの中では通用しない」と評する関係者もいた[2]。
しかし、1995年にホルガー・オジェックが監督に就任すると守備的MFにコンバート。新人の土橋正樹とのコンビでレッズの中盤を構築すると、冷静な読みを武器にサントリーシリーズ3位に貢献しオジェック体制で欠かすことの出来ない存在となっていった。翌1996年にはギド・ブッフバルトを負傷で欠いたこともありリベロへコンバート。ブッフバルトの復帰後もこのポジションを務め、最後尾からチームを統率した。2000年に引退するまでいぶし銀のプレーで、前身の三菱時代を含め17シーズンにわたって同クラブの中盤を支え続けた。
現役引退後は指導者の道へ進み、浦和レッズジュニアユースのコーチに転身。浦和レッズユースの監督を経てトップチームのコーチを務めた。
人物
- リーグを代表するフリーキックの名手で、度々直接フリーキックで得点したが特にアビスパ福岡のホーム・博多の森球技場と相性が良く、1996年の対戦で2点、1997年の対戦で1点直接フリーキックから得点した。
- とんねるずの木梨憲武は帝京高校サッカー部の先輩であり、サッカー絡みの企画にしばしば出演した。
- 水戸に所属する広瀬陸斗は実の息子。
所属クラブ
- 与野市本町少年サッカー団
- 三菱養和SC
- 1981年 - 1984年 帝京高等学校
- 1984年 - 2000年 三菱重工/三菱自動車浦和レッドダイヤモンズ
個人成績
2000年シーズン終了時の成績[3][4][5][6][7] テンプレート:サッカー選手国内成績表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯/ナビスコ杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1984||三菱||20||JSL1部||13||1||||||1||1|||| |- |1985||三菱||20||JSL1部||20||5||||||3||1|||| |- |1986-87||三菱||20||JSL1部||22||0||||||2||2|||| |- |1987-88||三菱||20||JSL1部||15||2||||||1||0|||| |- |1988-89||三菱||||JSL1部||16||0||||||2||0|||| |- |1989-90||三菱||||JSL2部||25||6||0||0||1||0||26||6 |- |1990-91||三菱||6||JSL1部||18||1||1||0||2||0||21||1 |- |1991-92||三菱||6||JSL1部||18||3||1||0||2||0||21||3 |- |1992||浦和||-||J||colspan="2"|-||7||0||3||2||10||2 |- |1993||浦和||-||J||26||2||1||1||2||0||29||3 |- |1994||浦和||-||J||18||4||2||0||0||0||20||4 |- |1995||浦和||-||J||49||2||colspan="2"|-||2||0||51||2 |- |1996||浦和||-||J||24||4||9||0||4||0||37||4 |- |1997||浦和||8||J||19||1||4||0||0||0||23||1 |- |1998||浦和||8||J||23||0||4||1||2||0||29||1 |- |1999||浦和||18||J1||13||0||3||0||2||0||18||0 |- |2000||浦和||18||J2||7||0||0||0||0||0||7||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始172||13||30||2||15||2||217||17 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行7||0||0||0||0||0||7||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行122||12||||||13||4|||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行25||6||0||0||1||0||26||6 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終326||31||||||29||6|||| |} その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 6試合1得点
- 1991年
- コニカカップ 2試合0得点
記録
- Jリーグ初出場:1993年5月16日 対ガンバ大阪戦(万博)
- Jリーグ初得点:1993年11月6日 対横浜マリノス戦(三ツ沢)
- JSL初出場:1984年
- JSL初得点:1984年10月14日 対本田技研戦
指導歴
- 2001年 浦和レッドダイヤモンズ ジュニアユースコーチ
- 2004年 浦和レッドダイヤモンズ ユースコーチ
- 2005-2006年 浦和レッドダイヤモンズ ユース監督
- 2007-2008年 浦和レッドダイヤモンズ コーチ
- 2009-2010年 浦和レッドダイヤモンズ 強化部
- 2011年 浦和レッドダイヤモンズ コーチ
- 2012年- 浦和レッドダイヤモンズ ユースコーチ
脚注
参考文献
- 「THIS IS MY SOCCER LIFE 59」『サッカーダイジェスト』1985年1月号
- 三菱自動車フットボールクラブ『RED DIAMONDS OFFICIAL HANDBOOK 1994』南雲堂、1994年 ISBN 4-523-31036-X