津軽信著

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津軽 信著(つがる のぶあき)は、陸奥国弘前藩の第6代藩主。

生涯

享保4年(1719年)2月27日、津軽信興(第5代藩主・津軽信寿の長男)の長男として生まれる。享保15年(1730年)、父・信興が早世したため、翌享保16年(1731年5月16日、祖父で先代藩主の信寿の隠居により、家督を譲られて藩主となった。

相続

当初は比較的裕福であった藩の財政であったが、風雅趣味であった先代藩主・信寿の浪費に天災なども加わり、この頃の藩財政は困窮気味であった。また信寿の浪費が幕閣に知れ渡り、浪費を嫌い倹約を推し進めていた将軍・徳川吉宗らへの、先代の評判はあまり芳しくはなかった。信寿から13歳の少年への家督の継承は、幕府からの懲罰とも伝えられている。

藩を継承した信著の治世期は不運にも、凶作・松前大島噴火による津波・数度の洪水、疫病の大流行、害虫の大発生、城下や青森町の大火、蝦夷地有珠山の噴火の影響による群発地震、果ては領内大地震など、天災が相次いだ。領民は困窮を極め、結果として藩財政も著しく悪化した。

藩政改革の断行

藩の危機的事態を打破するためにも、信著および津軽藩は藩政改革を断行する。当初は13歳での相続でもあり、先代からの家臣や藩政をそのまま継承していたが、15歳ごろから家臣の入れ替えを行い、様々な改革に着手し始めた。改革の内容は倹約令や借米制度を中心とした、当時の幕府の方針に沿ったものであった。

藩政改革の内容

方向性としては幕府の享保の改革のプランに沿ったものである。藩士には倹約令を出し、また正装の簡略化を命じて無駄を減らした。天災で困窮する農民に対しては、富豪から御用金を徴収して救済に当てた。城下に訴訟箱を設置して広く民間の意見を求める政策も行った。その他蘭学を中心とした文武を奨励するなど、倹約消極策だけではなかったが、これも吉宗の方策に近いものである。これは幕府におもねったわけではなく、全国的な当時の改革のスタイルだったと思われる。

藩政改革の頓挫

延享元年(1744年5月11日には弘前城下で大火が起こった。この直後の5月25日に信著が26歳の若さで病死したため、藩政改革は一旦頓挫してしまう。死後、家督は長男の信寧が継いだ。

偏諱を与えられた人物

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