ヴィシー
テンプレート:Communefra ヴィシー(Vichy、オック語:Vichèi)は、フランス、オーヴェルニュ地域圏、アリエ県のコミューン。温泉保養地。第二次世界大戦期にはヴィシー政権が置かれた場所としても知られている。
モンリュソンに次いで県第2の人口を持つコミューンで、地域圏内ではクレルモン=フェラン、モンリュソン、オーリヤックに次いで第4位である[1][2]。
歴史
アンシャン・レジーム時代、ブルボネ州に属した。1861年から1866年のナポレオン3世の時代に再開発が行われ、街の様子は一変した。新しい大通りが通り、アリエ川沿いに堤防が造られ、公園には1865年に建築家Badgerによって巨大なカジノが造られた。
第二帝政の後、ベル・エポックによる二番に大きな建築ラッシュが起きた。1903年にオペラハウス、ホール、東洋風に設計された大浴場がオープンした。
ヴィシー政権
テンプレート:Main 1940年6月22日に署名された停戦条約の後、この区域はドイツには占領されず、フランス国 (État Français) の名前で、7月1日にヴィシーを首都と定めた。理由は比較的パリに近く (列車で4.5時間) 、温泉地であるためホテルの収容人数が多く、臨時の官庁及び官舎を置くのに都合が良かったためである[3]。当時のホテル収容人数は国内第2位であった。その上、当時では超近代的な電話交換機があり、電話を介して全世界と連絡を取ることが可能であった。
7月1日、政府は多くのホテルの所有権を得た。国会議員600人はヴィシーでの会議や評議会に参加した。7月9-10日には、オペラハウスの大ホール客席で、国会議員は、第三共和制終了のための投票を行った。民主政体は廃止され、フィリップ・ペタンを首席とするヴィシー政権がこれに替わった。600人中わずか80人の議員が反対を表明した。この日から始まって4年以上の間、ヴィシーはフランスの首都となり「ヴィシー政権」と呼ばれた。
北アフリカのフランス植民地を舞台とした映画「カサブランカ」には、登場人物の警察署長が「ヴィシー水」を捨てるという象徴的なシーンがある。
名物
- ミネラルウォーター
- 温泉 - 噴泉口は30ヶ所を越える。一部は冷泉を含むが、摂氏60度を保つものも存在する。利用法は温浴法、灌水法、飲用法が用いられている[3]。
- 化粧品 - 温泉の湯を利用して作られることで有名。
姉妹都市
- テンプレート:Flagicon ヴィルヘルムスハーフェン、ドイツ
- テンプレート:Flagicon バード・テル ツ、ドイツ
- テンプレート:Flagicon ライン=ネッカー=クライス、ドイツ
- テンプレート:Flagicon ダンファームリン、イギリス
- テンプレート:Flagicon ログローニョ、スペイン
- テンプレート:Flagicon クルージュ=ナポカ、ルーマニア
- テンプレート:Flagicon サラトガスプリング、アメリカ合衆国
脚注
外部リンク
テンプレート:France-stub- ↑ Dans l’Allier, selon toutes-les-villes.com
- ↑ En Auvergne, selon toutes-les-villes.com
- ↑ 3.0 3.1 岡田演之『ペタン元帥はかく考へる』三学書房、1941年10月20日、pp223-224。