林忠崇
テンプレート:基礎情報 武士 林 忠崇(はやし ただたか)は、幕末の大名で、上総国請西藩の第3代藩主。
生涯
嘉永元年(1848年)、請西藩主林忠旭の五男として生まれる。嘉永7年(1854年)に忠旭が隠居するが、兄忠貞はすでに早世しており、自らも幼少であったため、叔父の忠交が家督を相続した。慶応3年(1867年)の忠交の死により、幼少であった忠交の子忠弘に代わって家督を相続する。忠崇は文武両道で幕閣の覚えめでたく、将来閣老になる器と評されていたとされる。
慶応3年(1867年)、大政奉還の報を受けた藩は洋式軍の調練を行なうなど有事に備えたが、戊辰戦争勃発にともなって藩論は恭順派と抗戦派に分かれて伯仲した。同年閏4月に撤兵隊、伊庭八郎や人見勝太郎率いる遊撃隊など、旧幕府軍が来訪して助力を要請するや、忠崇は自ら脱藩して藩士70名とともに遊撃隊に参加した。新政府は藩主自らの脱藩を反逆と見なし、林家は改易処分となった。
脱藩した忠崇らは幕府海軍の協力を得て、館山や箱根、伊豆などで新政府軍と交戦する。その後は奥州へ転戦するも、旧幕府側の相次ぐ敗北により戦況は悪化し、盟主の仙台藩も新政府軍に恭順する。徳川家存続の報を受けた忠崇は、戦争の大義名分が果たされたとして仙台にて新政府軍に降伏。江戸の唐津藩邸に幽閉された。
明治2年(1869年)、甥の忠弘が東京府士族(300石)として家名存続が認められたものの、家禄は35石に減らされ、その後の秩禄処分によって困窮した生活を余儀なくされた。明治5年(1872年)1月、赦免。維新後は開拓農民、東京府や大阪府の下級官吏、商家の番頭など、一介の士族として困窮した生活を送った。林家は旧諸侯にもかかわらず、改易の事情から華族の礼遇が与えられることはなかった。
明治26年(1893年)、旧藩士による林家の家名復興の嘆願が認められ、忠弘は男爵を授けられて華族に列する。その際、分家していた忠崇も復籍して華族の一員となり、翌年には従五位に叙された。その後は宮内省や日光東照宮などに勤めた。
昭和12年(1937年)に旧広島藩主・浅野長勲が死去した後、忠崇は生存する唯一最後の大名となった。晩年は娘と同居しながら悠々自適の生活を送り、時には「最後の大名」[1]として各取材を受けるなど幸福であったと伝えられる。昭和16年(1941年)1月22日、次女ミツの経営するアパートにて病死。テンプレート:没年齢2。死の直前に辞世を求められた際、「明治元年にやつた。今は無い」と答えたと言われる。辞世の句は『真心の あるかなきかはほふり出す 腹の血しおの色にこそ知れ』。
脚注
参考文献
- 中村彰彦『脱藩大名の戊辰戦争 上総請西藩主・林忠崇の生涯』中公新書、2000年 ISBN 4121015541
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