阿部正右
阿部 正右(あべ まさすけ、享保9年11月29日(1725年1月13日) - 明和6年7月12日(1769年8月13日))は、江戸時代の大名、老中。備後福山藩第3代藩主。阿部家宗家7代。
第2代藩主・阿部正福の次男。母は島津吉貴の養女(鳥居忠英の娘)。正室は二本松藩主・丹羽高寛の娘。子は正表(長男)、正固(次男)、正倫(三男)。幼名、富之助。初名、正治。
生涯
備後福山藩主・阿部正福の次男として江戸藩邸で生れる。元文3年(1738年)に14歳で徳川吉宗に御目見し、伊予守に任じられ従五位下に叙される。寛延元年(1748年)、25歳で正福から家督を譲られ、明和6年(1769年)に死去するまで28年間藩主を務めた。ただし、藩主在任期間の大部分は幕政へ参画しており、藩政に直接関与することはほとんどなかった。
福山藩主に就任した正右は、寛延3年(1730年)に福山に入部し、領内を視察するが、その後は江戸または京都に住まった。宝暦2年(1752年)に奏者番に任じられ、同6年(1756年)に寺社奉行を兼任し、同10年(1760年)には京都所司代に転任して従四位下に叙された。京都所司代在任中には先例を破り処分を受けることもあったが、後桜町天皇即位の祭礼を取りまとめるなど活躍する。明和元年(1764年)に西丸老中に就任し、翌年(1765年)本丸老中に任じられる。なお、阿部家宗家が老中を務めるのは、5代前の重次以来約100年ぶりであった。
しかし、一方で正右の出世には多額の経費が費やされ、福山藩は無理な支出を強いられることになった。そのため藩は藩札(銀札)を濫発し、厳しい財政を補填しようとしたが、勢い市場を混乱に陥れ、藩の信用は失墜することになった。事態に窮した藩は藩札の強制使用を命じ、更には「御用銀」を領民に賦課した。しかし宝暦3年(1753年)、これに反発した領民による一揆が勃発して、政策は撤回されることになった。その後、藩は流通統制や財政の緊縮に努め、財政の健全化を図ろうとするが、正右の死去までに状況が好転することはなかった。また、こうした状況の中で、藩士の綱紀は弛緩しきったという。
経歴
- 1724年(享保9年) 生誕(11月29日)
- 1738年(元文3年) 従五位下・伊予守
- 1748年(寛延元年) 相続(11月19日)
- 1752年(宝暦2年) 奏者番に就任
- 1756年(宝暦6年) 寺社奉行を兼務(5月7日)
- 1760年(宝暦10年) 奏者番兼寺社奉行から京都所司代に転任(12月3日)
- 1764年(明和元年) 京都所司代から西丸老中に転任
- 1765年(明和2年) 西丸から本丸老中に転属(12月22日)
- 1769年(明和6年) 老中・藩主在職のまま死去(7月12日)、享年46
諡は西閣院殿楼誉託方練契。墓地は西福寺(台東区浅草)、のち谷中墓地(台東区谷中)に改葬。