ファイサル (サウジアラビア王)
テンプレート:基礎情報 君主 テンプレート:Commons&cat ファイサル・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード(テンプレート:Rtl翻字併記、1906年 - 1975年3月25日)は第3代サウジアラビア国王(在位:1964年 - 1975年)。ワッハーブ派イマームとしてはファイサル2世と呼ばれる。
生涯
初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの3番目の息子として、リヤドで生まれた。母はムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブの子孫。 1925年に、軍隊を指揮してヒジャーズ王国侵攻で決定的勝利を得、翌年ヒジャーズの知事に就任。サウジアラビア王国が正式に建国された後、1932年に外務大臣に就任した。
パレスチナを国連が分割した後に、父王にアメリカとの国交断絶を呼びかけたが却下された。兄サウード国王の健康が衰えたとき、1964年3月4日に摂政に任命された。同年11月2日に即位した。
政策
首相時代の1962年11月26日に内政の基本政策として次の10カ条からなる布告を発表した、この理念は後に実質的な憲法となる基本統治法に受け継がれている。
- クルアーンとスンナを国家の法律と行政の基盤とすること
- 地方行政制度の確立
- 司法省、最高司法会議の設立
- ファトワー公布局の設立
- 言葉と行動によるイスラームの布教
- イスラームの精神に則った勧善懲悪
- 医療・教育サービスの無償提供、低廉な基本食料品の提供、社会保険事業団の設立
- 経済・社会開発の促進
- 道路・ダム建設プロジェクトと水資源開発プロジェクトの実施、重・軽工業の開発、石油・鉱物資源公団の設立
- 奴隷制度の廃止とすべての奴隷の解放
即位後は女性が教育を受けることを許可して女学校を設立したり、1965年からテレビ放送を開始するなど近代化改革を導入したが、これらの改革は多くのサウジアラビア人の反対に遭った。 1966年に甥にあたるハーリド王子が仲間を引き連れてテレビ放送を止めさせるためにテレビ局を襲撃するという事件が発生すると、保安部隊に追い詰められてテレビ塔に登ったハーリド王子の射殺命令を出した。
1973年、ファイサル国王はサウジアラビアの武力を増加させる計画を開始した。 10月17日に価格を4倍にして、世界市場からサウジアラビアの石油を引っ込めた。この結果、世界的な石油危機が発生した。1974年にはタイム誌のマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
暗殺
1975年3月25日、甥のテンプレート:仮リンク王子によって撃ち殺された。
ファイサル王子は国王に会うのを待っていたクウェートの代表団と共にいた。 国王が彼らに挨拶するために前屈みになったとき、王子はピストルを抜き、3回国王の顔面を撃った。攻撃直後にファイサル王子は捕らえられ、精神疾患だったと公式に発表された。彼は後に大逆罪で有罪を宣告され、1975年6月にリヤドの公共広場で首を刎ねられた。
王子は、1965年に保安部隊との衝突で死んだ兄のハーリド王子の敵を討ちたがっていたと推測された。いくつか陰謀説があったが、調査によってファイサル王子の単独行動だと断定された。
王位は弟のハーリドが引き継いだ。
逸話
パキスタンのライアルプール市は1979年にファイサラーバードに改名された。また、首都イスラマバードにある近代的なモスクは、彼に因んでファイサル・モスクと名付けられている。カラチの主要高速道路はファイサルに改名され、ジンナー国際空港の近くの住宅地域はシャー・ファイサル・コロニーに改名された。