雨宮製作所
雨宮製作所(あめみやせいさくじょ[1])は、鉄道車両を製造していた企業。 1907年、鉄道資本家であった雨宮敬次郎の個人経営の工場「雨宮鉄工所」として操業を開始した。
沿革
雨宮は大日本軌道[2]という全国に支社(路線)を展開する蒸気軌道を運営しており、その路線へ車両を自家生産し廉価に供給することを目的としたとされる。
深川区和倉町に雨宮鉄工場(後に株式会社雨宮鉄工所)を1907年(明治40年)11月に設立した[3][4]。その後1911年(明治44年)1月に敬次郎がなくなると大日本軌道は娘婿の亘が社長に、養子の豊次郎が常務取締役となり経営を引き継ぎ、7月に雨宮鉄工所は大日本軌道と合併し大日本軌道鉄工部となった。工場は第一次大戦後の好況に乗じ業績を伸ばしていた[5]。亘は1918年(大正7年)になくなり豊次郎が大日本軌道の社長に就任すると工場は1919年(大正8年)7月に独立して株式会社雨宮製作所となった[6]。代表取締役は晩年の敬次郎の秘書役であり大日本軌道の常務取締役の小澤信之甫が代表取締役になり豊次郎は取締役に他の取締役も雨敬の関係者が就任していた。しかし1922年(大正11年)になると代表取締役の小澤を除き雨宮一族と雨敬の関係者は姿を消した[7]。
1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって東京深川にあった工場が壊滅してしまう。その後は再建に乗り出し、1927年(昭和2年)に新潟鐵工所と共同で日本初のディーゼル機関車を、1928年(昭和3年)には日本初のディーゼル動車(長岡鉄道キロ1形)を製作するなど、新技術開発に意欲的であった。
ところが昭和金融恐慌の波に呑まれ地方私鉄の開業は途絶えて受注は激減し、1931年(昭和6年)には倒産、事実上活動を停止してしまう。同年に一旦合資会社雨宮工場として再起を図り、倒産前の仕掛品を中心に細々と製品出荷を行った[8][9]が、それも1932年(昭和7年)の神中鉄道キハ1 - 6の大改造工事を最後に活動の形跡が絶えており[10]、最終的に1934年(昭和9年)ごろに会社は整理されたものと考えられている[11]。
生産品は小型の蒸気機関車から客車、電車、気動車まで多岐にわたる。機関車の主な納入先は私鉄であり、国鉄には工事用としてケ100形100 - 105(1919年)およびケ160形160 - 169(1922年)の2形式が納入されており、他に専用鉄道、森林鉄道、海軍にも納入されている。
- 1907年(明治40年)11月 雨宮鉄工場設立
- 1911年(明治44年)
- 1月 雨宮敬次郎死亡
- 7月18日 株式会社雨宮鉄工所設立
- 7月 大日本軌道と合併し大日本軌道鉄工部となる
- 1918年(大正7年) 雨宮亘死亡
- 1919年(大正8年)7月 株式会社雨宮製作所設立
- 1923年(大正12年)9月 関東大震災により工場壊滅
- 1931年(昭和6年) 合資会社雨宮工場設立
製品
- 蒸気機関車
- 当初人車軌道を蒸気動力化するためにアメリカから輸入されたトラム・ロコを模倣した「へっつい」形(車高が非常に低く、簡素な構造)と称される構造の機関車の製造からスタートし、客車もこれに牽引される非常にコンパクトな車両から製造を開始した。設計については1910年代にコッペルやクラウスなどの欧米メーカー製品に学んだ、極めて堅実かつ実用的な設計のウェルタンク機関車に発展し、これは会社閉鎖まで主力商品として各地の小鉄道に供給された。更にこれらの設計は1920年代以降、立山重工業や協三工業など各地に設立された地方の車両メーカーの良き手本となった。
- 電車
- 京成電気軌道や江ノ島電氣鉄道、京王電気軌道および玉南電気鉄道など近隣の鉄道への納入実績が多く、他にも「馬面電車」として有名な花巻電鉄への納入が知られている。
- 気動車
- 後発であったものの、当初より両運転台式での車両設計を行うなど先進的な構想を持っていたことが知られ、純粋な単端式気動車の製作例はごく少数に留まる。その製造実績の大半は実用性の高い2軸両運転台式の半鋼製車が占めていた[12][13]。
脚注
参考文献
(著者の五十音順)
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- 小川功「雨宮敬次郎」『日本の鉄道をつくった人たち』悠書館、2010年
- 中川浩一ほか『軽便王国雨宮』丹沢新社、1972年
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関連項目
- 武利森林鉄道18号形蒸気機関車(雨宮21号) (武利森林鉄道で使用された、現存する雨宮製作所製の車両)
外部リンク
- 雨宮製作所広告『岩石と其爆発』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- テンプレート:Cite- 雨宮21号が動態保存されている施設。