戈
戈(カ・ほこ)は、敵を打ち据える動作によって殺傷するのに適した穂先を持つ、古代東アジアのピッケル状の長柄武器(長兵)である。
「ほこ」の和訓を与えられている字には「矛」もあるが、「矛」では金属製の穂先を槍と同様に柄と水平に取り付けるのに対し、「戈」では穂先を柄の先端に垂直に取り付け、前後に刃を備える。ただ日本の歴史時代に実用の武器として用いられたのは「矛」の方のみであるため、日本語文献史料で「ほこ」とある場合、通常は「戈」ではなく「矛」である。そのため、歴史学用語としては訓読みするより音読みの「カ」で読まれることが多い。
「戈」の穂先はその歴史の大半で青銅製であったが、後世の戦国時代以降には一部鉄製も現れた。青銅製の戈をあえて銅戈(どうか)と呼ぶこともある。柄は竹や木で出来ていたとされる。日本では弥生時代に導入され、当初は実用武器として用いられたと考えられるが、次第に祭具としての用途が主流となって巨大な青銅製祭具と化し、武器としての実用には適さない姿に変じて弥生時代の末期まで用いられた。
歴史
刃がこのような形状で柄に取り付けられていたのは、後に中華世界を形成する東アジアの都市国家世界での貴族戦士間で戦われた戦車戦が、接近戦、白兵戦の段階に達した戦局において、こうした形状の白兵戦用武器が適していた為である。両手で柄を持って用い、戦車どうしがすれ違う時に、敵に打ち込んで突き刺したり戦車から転落させる、引っ掛けて首などを斬るといった用法で戦った。戦車戦においては矛のような突く武器よりも、戈のような切りつける武器の方が命中の確率や打ち合いによる防御性が高く、戦車の突撃力によって武器を敵に打ち込んだときの衝撃が、不安定な疾走する戦車の上に立っている使用者を戦車から突き落とす危険が少なかったからである。この衝撃はむしろ、斬りつけられた敵戦士の体の上を戈の刃が滑っていくように働き、効果的に敵戦士の体に切り傷を与えることができた。こうした刃の機能は、周以降の戈において、内側の刃になめらかな曲線が用いられることで、さらに著しく効果的になっている。
当時の戦車は、英語で言うタンク (tank) ではなく、チャリオット (chariot) と呼ばれる二輪の軽快な馬車であった。馬は二頭程度で、貴族戦士は三人乗車し、そこに矛などを持った徒歩の従卒が数人従ってひとつの戦闘単位を成した。中央に「御者」が立ち、左側では戦闘単位の指揮官である「車左」が、戦闘指揮と弓矢による遠方からの射撃戦を担当、右側では戈を携えた戦士「車右」が控え、接近戦、白兵戦に備える。この戦車が車左の指揮を受けながら御者の操作により戦場を疾駆し、車左自ら弓射による射撃戦を行いつつ、白兵戦にもつれ込んだ時点で、二台がすれ違って車右どうしが戈で斬り結び合う、あるいは敵の戦車に追いすがり、車左や御者に戈の斬撃を加える。
こうした戦術は不安定な戦車上で立った状態での乗車、弓術、操車術、すれ違いざまの戈による斬りあいのいずれをとっても、日常の高度な訓練を必要とし、労働時間に代えてこうした戦闘訓練に専念できる、都市国家社会に君臨する貴族階級でなければ身につけることは困難なものばかりであった。しかし、東アジアの都市国家間の戦闘では、古代ギリシアのポリス社会と異なってそれほど大規模な歩兵動員もできず、小規模な歩兵集団は戦車戦に熟達した貴族戦士に容易に圧倒された。そのため、馬と戦車自体の大きさや速度による精神的威圧効果、熟達した遠方からの弓矢による射撃、接近時の戈による白兵戦という3つの特性を持つ戦車はもっとも強力な戦闘力であった。
しかし、新石器時代以来続いた、殷、西周、春秋時代といった都市国家の時代から、鉄器による農地開発が進んで人口が増加し、領域国家が形成されるようになった戦国時代になると、戦場に動員される兵士数は激増し、平民出身の歩兵が重要な役割を果たすようになった。こうして戦車や都市国家の貴族戦士の戦場での役割は重要度を失っていった。さらに、機動戦を担当する高度な戦闘技術を持つ上級戦士の兵種は、戦車戦に熟達した都市国家の貴族戦士よりも、機動力に富んだ、新式の騎兵戦闘技術を北方遊牧民から習得し、領域国家となった大国の政府に養成された武官的エリート戦士たちに強く期待されるようになっていった。こうした変化は、春秋時代までは小都市国家が大国に征服されても、都市貴族支配のまま温存されていたのが、戦国時代になると次々に取り潰され、大国の中央政府から派遣された役人に直接統治される、「県」と呼ばれる行政組織に組みかえられていった現象と深く結びついている。
騎兵は一組の人馬のみで機動行動、弓矢による遠方からの射撃戦、矛や刀剣による白兵戦のいずれもこなせ、複雑な地形をものともしない。しかし、戦車は騎兵に比べ、機動力が低く、小回りが利かず、一つの戦闘単位当たりの戦闘効果も劣り、製造費や維持費が高かった。また戦車は、1台の戦闘単位当たり2頭以上もの高価な軍馬と、3人もの高い社会的地位を保証しなければならない貴族戦士、さらにこれを援護する数名の歩兵従卒を必要とする非効率性といった弱点を抱えていた。
中華世界を長期にわたって統一し続け、熟練した騎馬戦士の本家本元たる北方の遊牧国家の匈奴との死闘を長期にわたって演じた前漢の時代になると、騎兵が本格的に運用されるようになり、戦車の重要度は低下し、戦車戦用の武器として発達した戈も同様に廃れていった。ただし、歩兵用の武器のひとつとしては、柄の短いものがしばらく余命を保つことになり、また戈と矛を組み合わせた戟も開発されて歩兵に用いられた。漢代の画像石には、しばしば片手に盾を、もう片方の手に戈を持って戦う歩兵集団の姿が描き、刻まれている。
また、戦車より機動力・攻撃力に優れた騎兵が本格的に運用されるようになっても、戦車は防御力・輸送力・突進力の高さや目立つ事を生かして使われている。前漢以降も、戦車は主に指揮官用・輸送用・防御用に用いられている。