シモノフM1936半自動小銃

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テンプレート:Infobox シモノフM1936半自動小銃(シモノフM1936はんじどうしょうじゅう、テンプレート:Llang第二次世界大戦中にソビエト連邦で開発された半自動小銃である。

開発経緯

20世紀初頭から各国の軍隊では連続して射撃ができる半自動小銃の開発が進められていた。第一次世界大戦ではロシア軍もイギリス軍フランス軍やドイツ軍と混じり参戦していたが当時のロシアの工業力は低く、各兵器や武器の生産も需要に追いつくことが困難だった。そこで帝政ロシア軍は兵器の需要不足を外国の兵器を購入することで需要の安定化をはかった。

兵器購入などで海外へ派遣されていた技術員の一人であるフェドロフ大尉は、大日本帝国陸軍製の小銃が使用していた6.5mm×50弾(三八式実包)を参考に半自動小銃の開発を研究していた。これは小口径のため反動が少ない6.5mm弾はフルオートライフルに使用するには丁度いいサイズであると分かったからである。その後1917年にフェドロフ大尉は世界初の突撃ライフルであるフェドロフM1916を開発した。

しかしロシア革命や弾薬がロシア制式の物とは違うことなどが重なり第一次世界大戦後、約9000丁生産されただけで終わってしまった。

シモノフM1936半自動小銃の登場

世界初の突撃ライフルであったフェドロフM1916は生産は行っていたがロシア革命でドイツとの講和が成立したため、実戦投入の機会は無かった。そのため軍部内でもこのフェドロフM1916もあまり注目されることがなく、そのまま銃器史の中に埋もれてしまった。

当時このフェドロフM1916の開発に青年銃技師S.G.シモノフはその腕をフェドロフ大尉に見出されライフル試作部の一員となって研究・開発を行っていた。そして1930年頃に試作品が完成、その後改良を重ね1936年にシモノフM1936半自動小銃、別名 AVS(シモノフ自動銃の略)の名前でソ連軍に正式採用された。

当初は半自動(セミオートマチック)と全自動(フルオートマチック)の両方を切換機により制御できる小銃として開発を進めていたが、結局フルオート時では反動が強いため銃のぶれが大きく使えないという理由から量産型では全自動機能は除外されてしまった。

特徴としては、作動方式はガス作動式を採用し銃身の中間あたりの上の部分に穴を空け、そこから発射ガスを導く方式を採用している。使用弾薬は7.62mm×54R弾を使用し、銃剣を装着する事が出来た。また発射時に発射ガスを上に逃がし、コンペンセイター(反動制退器)やフラッシュハイダー(消炎器)を兼ねた機能が銃口に装着されている。

しかし7.62mm×54R弾は19世紀から使われているリム付き弾を使用していたため薬室に押しこむ際や、発射後に薬室から薬莢を抜き取る際に余計な出っ張りとなり、そのことが原因で薬室内に弾薬が詰まるといった動作不良を度々起こした。作動方式はガス圧利用式であるが、ボルトハンドルが発射のたびに前後に動く為、射手にとっては危険であった。この事からソビエト連邦軍内でのシモノフM1936の動作などの信頼性は下がってしまった。

その後

危険性のある構造や故障しやすく弾薬も詰まりやすいといった構造のため制式採用後、配備数も部隊に数丁、もしくは余り行き届かなかった。その後、シモノフM1936半自動小銃は第一線部隊からは引き上げられ、後方部隊の警備や狙撃任務にしか使用され無くなっている。

1938年に発生した張鼓峰事件において、日本陸軍によって鹵獲された多くのソ連軍兵器の中に狙撃銃型のシモノフM1936半自動小銃(但し日本陸軍資料では"「サカロフ」式自動小銃"と表記)が確認できる[1]

注釈

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:第二次世界大戦のソ連の小火器
  1. 『張鼓峯事件鹵獲「ソ軍」兵器写真要覧』 アジア歴史資料センター レファレンスコード:C01003423800