討幕の密勅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年1月19日 (日) 13:31時点における118.238.102.235 (トーク)による版 (「このため討幕はその名目を失い、倒幕の実行延期の沙汰書~」を「このため討幕はその名目を失い、討幕の実行延期の沙汰書」とした。討幕には武力的手段の意が強い。)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:出典の明記 討幕の密勅とうばくのみっちょく)とは、江戸時代最末期の慶応3年10月14日1867年11月9日)、薩摩藩長州藩に秘密裡に下された、徳川慶喜討伐の詔書である。

概要

日付は、薩摩藩に下されたものが10月13日付(新暦11月8日)、長州藩に下されたものが同月14日付であり、いずれも廷臣である中山忠能正親町三条実愛中御門経之の署名がある。薩摩藩宛は正親町三条が、長州藩宛は中御門が書いたと言われるが、岩倉具視の側近玉松操が起草しており、岩倉が主導的な役割を果たした[1]

10月13日、まず薩摩の大久保利通が長州の広沢真臣を伴って岩倉を訪ね、朝敵となっていた長州藩主父子の官位復旧の沙汰書を受けた。翌14日、正親町三条邸にて大久保と広沢に密勅が手渡され、薩摩の小松清廉西郷隆盛、大久保と長州の広沢、福田侠平品川弥二郎が署名した請書を提出した。この密勅と同時に、薩長両藩には会津藩松平容保桑名藩松平定敬の誅戮を命ずる勅書も次の如く出されている。

右二人久滞在輦下助幕府之暴其罪不軽候依之速加誅戮旨被仰下候事(三条実美年譜)「訓読文:右、二人久しく輦下(れんか)に滞在し、幕府の暴を助け、其の罪軽からず候、之(これ)に依り速やかに誅戮を加うるの旨、仰せ下され候事」

一方、徳川慶喜は10月14日に大政奉還を上奏し、翌15日に朝廷に受理された。このため討幕はその名目を失い、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日に薩長両藩に対し下された。その後も岩倉や薩長両藩は、なお慶喜討伐を模索して王政復古鳥羽・伏見の戦いに至った。

形式について

討幕の密勅は、「詔」の字で始まる詔書の形式をとっている。朝廷が政治的権限を失って久しい幕末においても、詔書を発するには以下の手続きを経なければならなかった。

天皇は、作成された原案を承認すれば、自らの手で日付の一字を記入する(御画日)。摂政関白は、写しが送られてくると朝廷会議を開催して検討し、妥当と決すれば施行を奏上する。天皇は、可の一字を記入して許可する(御画可)。

しかし、討幕の密勅は明治天皇の御画日も御画可も欠き、摂政二条斉敬の手も経ていないものであった。二条斉敬は慶喜の従兄で親徳川派だったため、密勅の内容を知ればこれを許さなかったと思われる。後に正親町三条実愛は、密勅は二条摂政にも賀陽宮朝彦親王らにも極秘で、自分と中御門経之・中山忠能・岩倉具視だけが知っていたと証言している。

また正親町三条によれば、密勅は綸旨であるという。詔書と比べて手続きの簡易な綸旨は、天皇に近侍する者がその意を受けてこれを伝える奉書形式の文書で、文章は「~という天皇のご命令です」と伝聞の形をとる。だが、密勅の文章は、天皇が自ら直接命令する詔書の形式であり、伝聞の形をとっていない。

このように密勅は極めて異例の形式であるため、従来より偽勅説が唱えられてきた。佐々木克は、この詔書はもともと模擬文書であり、必要な場合は「このような勅命を出すことが可能だ」ということを保証する「サンプルのようなもの」という説を提唱しており、青山忠正はこの説を「最も明快で、説得力がある」と評価している[2]

本文

(訓読文)詔す。源慶喜、累世(るゐせい)の威(ゐ)を籍(か)り、闔族(かふぞく)の強(きゃう)を恃(たの)み、妄(みだり)に忠良を賊害(ぞくがい)し、数(しばしば)王命を棄絶し、遂には先帝の詔を矯(た)めて懼(おそ)れず、万民を溝壑(こうがく)に擠(おと)し顧みず、罪悪の至る所、神州将(まさ)に傾覆(けいふく)せんとす。 朕、今、民の父母たり、この賊にして討たずむば、何を以て、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐(しんしう)に報いむや。これ、朕の憂憤(いうふん)の在る所、諒闇(りゃうあん)を顧みざるは、萬(ばん)已(や)むべからざれば也(なり)。汝(なんじ)、宜しく朕の心を体して、賊臣慶喜を殄戮(てんりく)し、以て速やかに回天の偉勲を奏し、而して、生霊(せいれい)を山嶽の安きに措(お)くべし。此れ朕の願なれば、敢へて或(まど)ひ懈(おこた)ること無(な)かれ

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

テンプレート:Reflist
  1. ちなみに裏では岩倉具視の骨折りがあった」と明治時代に正親町三条実愛が述べている。
  2. 青山忠正「慶応三年十二月九日の政変」『講座 明治維新2』明治維新史学会編、2011年。