黒田長堅
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黒田 長堅(くろだ ながかた、1770年(明和7年)- 1784年3月30日(天明4年2月10日))は、筑前国秋月藩の第7代藩主。
交代寄合御礼衆・山崎義俊の次男。母は黒田長邦の娘・此子。官位なし。通称は貞之助、千之助。
安永3年(1774年)11月18日、先代藩主黒田長恵の末期養子として家督を相続した。母が第5代藩主・長邦の娘であり、女系で黒田氏の血統に連なっていたのである。
天明4年(1784年)2月10日、江戸で死去した。享年15。法号は霊雲院光岳道照。将軍に御目見すること無く死んでしまい、子女もいなかったため、幕府から養子縁組許可の下りる見込みはなく、秋月藩黒田家は御家断絶の危機に見舞われた。そのため、秋月藩の重臣は宗藩の福岡藩と相談して策を講じた。
最初、公家・唐橋在家の三男・豊煕を替え玉にすることが計画された。豊煕の母は第4代藩主・長貞の娘であった。しかし、豊煕と長堅をすり替えるこの計画は中止された。次いで、長堅の死亡を隠し、隠居願いを提出し、養子を迎えることにした。具体的には、長邦の外孫にあたる秋月種茂の次男・長舒を養嗣子として迎えた。
こうした工作により、「寛政重修諸家譜」には「長堅長ずといへども重病ののち行歩かなはずして拝謁することあたはず」と御目見のできなかった事情を記し、さらに宗藩の幼少の斉隆に代わり長崎警備の「奉仕にたへたるものをえらびて家を継しめむ」ことを願いを許可されたとある。その後の履歴は、天明5年(1785年)3月17日に隠居し、同年9月17日に16歳で死去となっている。