リューリク
テンプレート:基礎情報 君主 リューリク(古東スラヴ語:Рюрикъ[1])は、862年にラドガ(現在のロシア連邦・スタラヤ・ラドガの辺り)を支配し、ノヴゴロドを建設したとされる、ルーシの最初の首長である。リューリクの後裔は、キエフ・ルーシから16世紀のロシア・ツァーリ国に至るまで、公、大公、ツァーリなど支配者として君臨した。後世に同名の君主があるため、リューリク1世とも呼ばれる。
名前の由来
リューリク(Riurik)は、現在の英語の名前のロデリク(Roderick)と関係している。古ノルド語のRørik(有名な支配者の意)が由来である。
生涯
ラドガとノヴゴロド(ホルムガルド)を支配してきたリューリクが、どのような人生を送ったかに関してはほとんど情報がない。彼に関するただ一つの情報は、12世紀に作成されたルーシの『原初年代記』に記録されている。現存する写本には、スラヴ人が自分たちを治める指導者を求めてヴァリャーギ(スカンジナヴィア人)にすがり、リューリクら三兄弟(リューリクの弟、テンプレート:仮リンク)を得たと書かれている。
リューリクは879年の死まで政権にとどまった。 しかしながら、彼の後継者オレーグは、リューリクの息子イーゴリを伴いキエフに公座を移し、キエフ大公国を建国した。但し、イーゴリがリューリクの子であるのかについては論争がある。
ルーシの公家の多くにはリューリクの血が流れているとされている。また、ロマノフ朝以前の王統をリューリク朝と呼ぶのは、彼らがリューリクの末裔とされているからである。 しかし、リューリクは半伝説的人物であるということに留意する必要がある。たとえば、『原初年代記』に相当する北欧の伝承『サガ』には、スウェーデン出身の族長の活動が描かれている物があるが、リューリクに関してはその様な物は存在していない。
スタラヤ・ラドガの近くに9世紀の大きな古墳のようなものがあり、地元民はそれをリューリクの墓と呼んでいる。
脚注
参考文献
関連項目
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