大韓帝国
テンプレート:基礎情報 過去の国 大韓帝国(だいかんていこく、テンプレート:Lang-ko(テハンジェグク))は、1897年から1910年までの間李氏朝鮮が使用していた国号。大韓国(だいかんこく、대한국(テハングク))、韓国(かんこく、한국(ハングク))とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国」と呼ばれることもある。
朝鮮史上初の近代国際法に基づく独立主権国家である。清の冊封国時代と日本統治時代の狭間の短い時期であり、朝鮮半島最後の専制君主国である。
現在の韓国政府はこの「大韓帝国」の領土に竹島(韓国名:独島)も含まれていたと主張する[1]。
目次
概要
李氏朝鮮時代と日清戦争
テンプレート:Main2 朝鮮国(李氏朝鮮)は1875年(明治8年)の江華島事件により、翌1876年(明治9年)に大日本帝国と結ぶことになった日朝修好条規を始め、アメリカ合衆国やフランス共和国などの欧米諸国と不平等条約を結ぶことになった。
朝鮮国内では清国との宗属関係を脱して近代化をすべきだという者(開化党)と清国との宗属関係を維持すべきだという者(事大党)とが対立、そうした中で1882年(明治15年)、壬午事変が起こり、大日本帝国と清国の両国はこれを鎮圧することを理由として出兵、日清両国の対立は決定的となった。そして、1894年(明治27年)に日清戦争が勃発し、1895年(明治28年)に大日本帝国が清国に勝利、下関条約を締結した。
この条約により、大日本帝国は清国に朝鮮が自主独立国であることを認めさせた。朝鮮国(李氏朝鮮)から清国に対する貢・献上・典礼等を廃止させた。これは、当時の朝鮮半島が明治日本及び清朝が共に自らの勢力圏におさめようと画策する日清両国の角逐の場であったため、この戦争の勝利により半島における清朝の影響を排して大日本帝国の権益伸張を確立するためであった。
冊封体制からの離脱
朝鮮国王高宗はロシア公使館に逃れていたが慶運宮へ戻った。1897年(明治30年)にもはや清の藩属国でなくなった以上、国王号を使用することは望ましくないという儒者の建言に従い以下の改革が実施された。国号を大韓と改め、元号も前年のグレゴリオ暦への改暦にともなって定めた「建陽」から「光武」に改元し、高宗は10月に皇帝に即位した。清の冊封の象徴であった迎恩門や「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑を倒して独立門を立て独立を記念した。
諸外国の動き
李氏朝鮮では、親露派の政権が誕生しており、日本とロシアは小村・ウェーバー覚書及び山縣・ロバノフ協定を結んでいた。1897年9月、ロシア公司がカール・イバノビッチ・ヴェーバーからアレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエルへと代わり、同年10月に彼が英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンを強制的に解任しようとする事件が起きた。また、ロシアは、独立協会の活動を支援しているとして、アメリカの宣教師を排撃した[2]。アメリカ公司のホレイス・ニュートン・アレンは「韓国でのロシアの干渉は、現在、軍事的及び政治的問題に関連する最も親密な事柄に広がる。」と報告している[2]。
しかし、その後ロシアは、三国干渉によって、1898年3月15日に清国と旅順港・大連湾租借に関する条約を結び、不凍港が手に入ることになると、韓国への関心が失われ、1898年3月23日には韓国から全てのロシアの軍事・民事アドバイザーが撤退した[2]。1898年4月25日、日本とロシアは、西・ローゼン協定を結んだ。しかし、その後、韓国政府が独立協会を排撃したため、アレンは「朝鮮人は外国勢力とそのアドバイスに学ばなければならない」として、韓国の統治能力に疑問を持ちはじめ、その状態は「ロシアの影響が完全に撤退されて以降、ますますひどくなった」と述べている[2]。
財政問題及び通貨問題
1896年7月、英国人の税関長ブラウンが財政顧問となった。1897年10月、ロシア公司シュペイエルが、財政顧問を英国人ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフへと変えようとする事件が起きた。
通貨においては、韓国の帝室が納付金を徴して白銅貨の私鋳を黙許したため、白銅貨の濫造・密輸が横行し、その悪貨によって商取引に問題が発生していた[3]。1904年10月、目賀田種太郎が財政顧問となり、同年11月、硬貨の鋳造を行っていた典圜局を閉鎖した。1905年7月、韓国は日本と同一の貨幣制度を採用し[3]、鋳造は大阪造幣局が行うようになった。1905年8月、ブラウンは税関長を辞め、韓国を去った。
近代化と大日本帝国の保護国へ
1899年(明治32年)には清と韓清通商条約を結び、独立協会を弾圧して、立法機関である法規校正所において国家基本法である9ヶ条の「大韓国国制」を制定、近代化を目指すテンプレート:仮リンクを推進し土地調査や鉱山開発など殖産興業政策を実施するが、財源不足や諸外国の外圧により利権を奪われるなどして挫折する。
1905年(明治38年)、7月の桂・タフト協定(アメリカ)、8月の第二次日英同盟条約(イギリス)、9月成立のポーツマス条約(ロシア)により、日本の韓国に対する排他的な指導権が列強によって承認され、同年11月の第二次日韓協約で韓国統監府が設けられて大日本帝国の保護国となった。
日韓併合と併合後
1910年(明治43年)の韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)の締結により大日本帝国に併合され、大韓帝国は滅亡した。大韓帝国の皇帝は、大日本帝国において1910年(明治43年)の詔勅 (前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為シ皇太子及将来ノ世嗣、太皇帝及各其儷匹ノ称呼ヲ定メ並ニ礼遇ノ件)により、昌徳宮李王に遇された。
年表
- 1897年(明治30年)
- 1898年(明治31年)
- 1899年(明治32年)
- 1900年(明治33年) 軍人勅諭を制定。
- 1904年(明治37年)
- 1905年(明治38年) 第二次日韓協約が成立する。
- 1906年(明治39年) 韓国統監府が置かれる。
- 1907年(明治40年)
- 1908年(明治41年)
- 4月 韓国標準時が制定される。
- 1910年(明治43年) 日韓併合条約により、大日本帝国と併合する。
政治
大韓国国制
1899年の大韓国国制により、
- 大韓国が自主独立の国であること
- 大韓国の政治は万世不変の専制政治であること
- 大韓国大皇帝が無限の君権を享有すること
- 大韓国大皇帝は不可侵であること
- 大韓国大皇帝が統帥権を有すること
- 大韓国大皇帝が法律制定権、恩赦権を有すること
- 大韓国大皇帝が行政各部の官制及び俸給を定めること
- 大韓国大皇帝が官吏の昇任降格を決定し、栄典を授与すること
- 大韓国大皇帝が外交権を有し、各国に使者を派遣・駐在させ、宣戦講和及び諸般の条約を締結する。
が定められた。
参照
- ↑ 独島の歴史
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 Korean-American relations. 3. The period of diminishing influence, 1896 - 1905 George McAfee McCune 1989
- ↑ 3.0 3.1 韓国経営 加藤政之助 1905年
関連項目
外部リンク
- コーネル大学 Willard Straightコレクション[1] (Flicr) — 1904-1905年の大韓帝国の写真集
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