恭譲王
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テンプレート:特殊文字 恭譲王(きょうじょうおう、1345年 - 1394年、在位:1389年 - 1392年)は、高麗の第34代国王である。第20代神宗の7代孫。はじめ定昌府院君に封じられていたが、李成桂(李氏朝鮮の太祖)により高麗王として擁立された。後に李成桂に譲位し、李成桂の命で子供とともに殺された。
略歴
父は定原府院君鈞、母は国大妃王氏。妃は昌成君の娘 順妃盧氏[1]。
1374年に恭愍王が殺され、禑王(辛禑)が即位した。政界では倭寇(前期倭寇)平定に功のあった李成桂や崔瑩らが台頭し、対明政策における対立から、李成桂は1388年にクーデター(威化島回軍)を行い、禑王の子の昌王(辛昌)を即位させ、1389年には昌王は正当な王位継承者ではない偽王として殺害し、恭譲王を擁立する。
恭譲王から李成桂への譲位を防ごうとした鄭夢周[2]らは李成桂派に殺され、1392年に恭譲王は李成桂に王位を譲り[3]、杆城に追放となる。1394年に謀叛の計画があるとして、王命による刺客により配流先の三陟で子とともに殺された。こうして高麗王朝は滅亡し、李成桂による李氏朝鮮時代がはじまる。
参考系図(高麗王第26代から34代まで)
参考として家系図を示す。赤色部分が恭譲王である。全体は高麗王系図を見られたい。 テンプレート:Familytree/start テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree テンプレート:Familytree/end