吉江藩

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吉江藩(よしえはん)は、越前国(現在の福井県鯖江市吉江町)に存在した。藩庁は吉江陣屋(吉江館)。

藩史

正保2年(1645年)、結城秀康の子で、第3代福井藩主・松平忠昌が死去し、その後を子の松平光通が継いだ。このとき、光通は異母兄の松平昌勝に5万石を分与(松岡藩)した。また同じく異母弟の松平昌親(吉江藩主当時の名乗りは昌明(まさあき))に2万5000石を分与した。

昌明の2万5000石は、越前国内各所に分散していたため、まず本拠地の選定を行わねばならなかった。慶安1年(1648年)、昌明は陣所を吉江に設置することを許可され、吉江藩が成立した。陣屋や町並みを整備し、明暦1年(1655年)6月、昌明が初入部した。従来の町に新しく整備した町をあわせて「十一口」、これを縦に並べて「江」としたとする伝承も残る。また、万治1年(1658年)には江戸鳥越に屋敷を拝領している。福井本藩からの独立性は薄く、完全独立経営に移行する前に廃藩となった。

延宝2年(1674年)に福井本藩藩主であった兄・光通が死去すると、その遺言により昌明が本藩の家督を継いで福井藩主となり、昌親と改名。これにより藩領は福井本藩に吸収合併され、吉江藩は廃藩となった。藩主所縁の地であることから、以降の吉江一帯は各種税を免除された。

昌親を祭る吉江神社が地元に残る。

吉江陣屋

藩庁が置かれた吉江陣屋(吉江館)は遺構はほとんど残らず。吉江藩館跡として記念碑のみが残っている。東西100メートル、南北120メートルほどの比較的小規模な陣屋と推定されているが、僅か30年ほどの使用であり、その後の土地改良などで実態はよくわからなくなっている。

地元である鯖江市杉本町の西光寺の表門は元・吉江陣屋の表門を移築したものであり、これが確認されている現存する唯一の遺構となっている。

陣屋を中心に、七曲りと呼ばれたメインストリートを中心にした小さな町並みであったとされ、この七曲りは現在も道路として日常に使用されている。家中跡、制札場跡、大手門跡、その他、藩邸の使用水として整備された「榎清水」と呼ばれる湧水がある。

近松門左衛門

元禄期に活躍した、代表的な人形浄瑠璃と歌舞伎の作者である近松門左衛門は、吉江藩の人とされることがある。本名を杉森信盛。福井藩士杉森信義の次男として、承応2年(1653年)福井で生まれた。2歳のときに昌明の付属とされた父と、設立間もない吉江藩の城下に移った。寛文4年(1664年)、近松11歳の時に父が吉江藩を辞し、京都に移るまでの数年間を吉江藩で育っている。地元の立待公民館には記念館が併設され、その他記念公園や銅像が設置されている。

歴代藩主

越前松平家

親藩。2万5000石。

  1. 松平昌明(昌親) 従四位下。兵部大輔。左近衛権少将。(福井藩主就任時)

関連項目