石津謙介
石津 謙介(いしづ けんすけ、1911年10月20日 - 2005年5月24日)は岡山県岡山市出身のファッションデザイナー。日本メンズファッション協会最高顧問。ファッションのみならず、音楽、ライフスタイル、思想に至るまで、日本の戦後文化に大きな影響を残した人物。
経歴
岡山師範学校附属小学校から旧制第一岡山中学(現・県立岡山朝日高校)を経て、明治大学商科専門部に入学。スポーツ万能であるとともに流行の先端をいく遊びに長け、明大在学中はオートバイ・クラブ、自動車部、航空部などを創部した他、ローラースケート、乗馬、水上スキーなどにも興じた。また、現在の金額にして約40万円程度にもなる背広を誂え、当時最先端の流行・風俗を楽しむという学生生活を送った。
明大卒業後は実家の紙問屋の経営を引き継いだが、ファッションへの造詣が深く、当時の中華民国・天津で服飾関連の仕事に従事した後、戦後はファッションメーカー・レナウンに勤務。1951年に独立し、「VAN」ブランドとして知られる石津商店(「株式会社ヴァンヂャケット」の前身)を大阪市南区に設立。特にブレザーとボタンダウンシャツをベースとした学生のファッションスタイルを「アイビールック」として紹介し、若者のファッション文化に改革をもたらした。さらに銀座にある「みゆき通り」をそれを着た若者で埋め尽くす「みゆき族」まで登場した。
また1964年東京オリンピックの日本代表選手団の赤い公式ブレザーや、1966年から1968年にはサンケイ・アトムズの試合ユニフォームをデザインした。また当時、国鉄、警視庁、日本航空、ヤマハなども石津デザインのユニフォームを採用した。
1978年に株式会社ヴァンヂャケットが約500億円の負債を抱えて経営破綻(その後再建)した後はフリーのファッションデザイナーとして活動する傍ら、衣・食・住のライフスタイルを積極的に提案した。
2005年5月24日、肺炎のため東京都青梅市の病院で死去。ファッションに最期までこだわり続け、寝たきりになってもパジャマを着ることを拒絶し、三宅一生デザインのシャツを着たまま息を引き取った。テンプレート:没年齢。
影響
「時・場所・場合を考慮して」という意味でよく用いられる「TPO(Time、Place、Occasion)」、「カジュアル」、「Tシャツ」、「トレーナー」、「スウィングトップ」、「ステンカラーコート」、「へビー・デュティー」などの和製ファッション用語を定着させたのは彼であり、「キャンペーン」(組織的な宣伝活動)や、「プレミアム」(賞品)といった業界用語もVANの企業戦略から生まれたものとされる。音楽・映画・グルメ・クルマといった主要男性誌の構成の原型をつくり上げた『MEN'S CLUB』などを通して、現在のカルチャー・シーンの基礎をつくり上げたとも言われる。
また、1960年代に石津謙介、くろすとしゆき、長谷川元、林田昭慶の4名で著したファッション誌「TAKE IVY」は、時を経て欧米のファッション関係者の間で注目されるようになり、2010年にアメリカ合衆国においてアシェット婦人画報社から英語版が出版され、翌2011年にはオランダ語版と韓国語版が出版された。ニューヨークタイムズは2009年6月17日付の記事で「TAKE IVY」を紹介し、" a treasure of fashion insiders "「ファッション関係者の宝」と評している[1][2]。
脚注
関連項目
- 岡山県出身の人物一覧
- 明治大学の人物一覧
- 平凡パンチ
- MEN'S CLUB
- アメリカニゼーション
- 石津良介 - 兄。写真家。1986年没。
- 石津祥介 - 長男。ファッション・デザイナー、ファッション・ディレクター。父・謙介の片腕として尽力した。
- 中野英治 - サイレント映画時代に活躍した二枚目スター。遊び人な一方でファッションに造詣があり、謙介はそのスタイルを手本とした。
- 佐山一郎 - 評伝『VANから遠く離れて 評伝石津謙介』を執筆。