相良為続

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相良 為続(さがら ためつぐ、文安4年(1447年[1])- 明応9年6月4日[1]1500年6月30日))は、相良氏の第12代当主。第11代当主・相良長続の3男[1]。母は犬童兼長の娘。官位は従五位下、左衛門尉[1]。通称は次郎三郎[1]。初名は頼元(よりもと)[1]、のち父・長続の一字と菊池為邦から授かった偏諱(「為」の字)により為続と改名した[1]

生涯

応仁元年(1467年)、父が病に倒れた後、為続の長兄・頼金が病弱、次兄・頼幡は夭折していた為に3男の為続が家督を継いだ[1]。翌年、父が死去すると実際に相良氏を取り仕切った。文明8年(1476年)に薩摩国牛山の島津三郎右衛門が舅である菱刈道秀を攻撃してくると、これを救うべく島津国久及び北原氏と共に三郎右衛門と会戦、その居城である牛山城をも攻略、為続は国久より牛屎院を与えられた。

文明14年(1482年)、島津氏の内乱鎮圧に加勢する為に牛屎院へ出陣中、その隙を伺った名和顕忠八代の高田へ侵攻してくる。城兵はこれを追い出し事なきを得たが、これ以降は名和氏との対立を深める。翌15年(1483年)に島津国久の名代・島津延久、菱刈道秀、祁答院重慶北原昌宅、更に天草志岐氏、上津浦氏、栖本氏から助勢を得て、顕忠を討つべく出陣し八代城を落としたが、このときは守護菊池重朝(為邦の嫡男)よりの許しが得られなかった為に止む無く高田へ退いている。しかし翌16年(1484年)に再び落城せしめて領有するに至り、長享元年(1487年)には豊福城をも奪った。その際、為続を頼っていた宇土為光(菊池為邦の実弟)を宇土城へと復帰させている。また同年、弟の相良頼泰が謀反を企図すると逸早くこれを察知し、頼泰が擁立しようとした頼泰の嫡子・長泰共々討ち取っている。

その後、菊池重朝が死去すると、その重臣・隈部朝夏が謀反に及ぶが、為続は約束に背き八代の番を尽く他へ出張させていた事から、重朝の後を継いだ菊池武運(能運)と義絶することになってしまう。そして明応8年(1499年)に能運と戦って敗北し八代へ退くと、周辺豪族も為続から離反、肥前有馬氏らも軍船を出し八代城を攻撃してきた。為続は止む無く八代、豊福から撤兵、牛屎院も島津氏へ返還して球磨葦北の防備に徹したが、翌年6月4日、54歳で死去した。法号は西華蓮船[1]。墓地は球磨無量寿院[1]。跡を子の相良長毎が継いだ。

為続は戦国武将としてよりは、教養人・政治家として評価されている。明応2年(1493年)には「相良氏法度七条」を定め[1]、また連歌にも通じ、「洞然長状」によれば、『新撰兎玖波集[1]に九州でただ一人句を選ばれたという。

脚注

注釈

引用元

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P362

参考文献

テンプレート:肥後相良氏当主