相良長続
相良 長続(さがら ながつぐ)は、相良氏の第11代当主。
生涯
肥後国球磨郡の山田城を領していたが、文安5年(1448年)に上相良氏の多良木頼観・多良木頼仙兄弟が相良氏第10代当主・相良堯頼を追放した後[1]、長続は薩州島津氏・豊州島津氏らの支持を受け、菱刈氏らの協力も得た長続は、直ちに多良木兄弟を雀ヶ森で討ち取って人吉城を支配下に置き[1]、堯頼を復帰させることで上相良氏と下相良氏で分裂していた相良氏を、下相良氏のもとで統一することに成功した。そして堯頼が亡くなると、家督を継いで第11代当主となった[1]。
宝徳3年(1451年)、長続が薩摩国牛屎院へ在陣しているのを見計らい、漆田・赤池の地頭である斉木但馬守が叛乱を企てる。長続は事前にこれを知り斉木を詰問した結果、不遜な言動があった為に切腹を命じたが斉木はこれに応じず、一族郎党200名と共に赤池城に籠った。長続はすぐさまこれを討ち取るが、その6年後の長禄元年(1457年)には橋本某が井野木田塞に籠って叛乱した。長続はこれも即座に鎮圧している。
長禄2年(1458年)、薩摩、大隅、日向で内乱が起こる。長続は11代守護・島津忠昌より協力を依頼され、牛屎院を与えられて牛山城を獲得する[1]。しかし、菊池為邦が葦北、水俣への侵攻し始めた為、牛屎院を返還しこれに備えている(その2年後に為邦により葦北を安堵された[1])。寛正6年(1465年)、一族の内乱により長続を頼ってきた名和氏の幸松丸(後の顕忠)を保護し、使者を派遣して度々交渉に及んだ末、無事に幸松丸を八代城へと帰還させている[1]。長続はこの功により、八代郡高田郷350町を賜った。
応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると細川勝元に与して上洛し[1]、活躍したが翌年1月に病を得て帰国し、まもなく58歳で死去した。後を3男の為続が継いだ。
脚注
注釈
引用元
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 引用エラー: 無効な
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