七戸藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
七戸藩(しちのへはん)は、居所を七戸城(青森県上北郡七戸町)とする分知大名の創設を幕府に願って認められて以後の呼称である。別称 盛岡新田藩
概要
戊辰戦争においては宗家盛岡藩とともに奥羽越列藩同盟に列したことより、1868年(明治元年)1,000石の削減と当時の藩主南部信民が隠居することになったが、1869年(明治2年)明治政府は戦後処理の際に誤認をして、南部信民の遺領 10,000石を弟である信方に改めて下賜し、七戸城の改修や領内整備などをおこない信方が改めて七戸藩を立藩した。
沿革
- 1694年(元禄 7年) - 盛岡藩5代藩主 南部行信は舎弟の南部主税政信(麹町候)に5,000石、南部主計勝信(三田候)に3,000石を分知し、江戸幕府旗本寄合席として別家を立てる。
- 1707年(宝永 4年) - 知行所を本家に返還し、蔵米(半額は金納)を持ってこれと替えた。
- 1746年(延享 3年) - 南部主殿信弥(麹町候) 家督を継ぐ。
- 1750年(寛延 3年) - 南部主税信博(麹町候) 家督を継ぐ。
- 1756年(宝暦 6年) - 南部主税信喜(麹町候) 家督を継ぐ。
- 1799年(寛政12年) - 南部主税信鄰(麹町候) 家督を継ぐ。
- 1819年(文政 2年) - 南部播磨守信鄰の諸侯加列を願出許可され、盛岡藩11代藩主 南部利敬から蔵米で6,000石を加増、11,000石の定府大名として、盛岡新田藩を立藩し諸侯に列する。
- 1822年(文政 5年) - 南部信誉 家督を継ぐ。
- 1858年(安政 5年) - 城主格大名昇格。
- 1862年(文久 2年) - 南部信民 家督を継ぐ。
- 1863年(文久 3年) - 七戸村(青森県上北郡七戸町)の隣村三木谷村(現十和田市)に陣屋の貸与を受けた。
- 1868年(明治元年)12月 - 南部信民 1,000石の削減と隠退を命じられる。南部信方 家督を継ぐ。
- 1869年(明治 2年)正月 - 明治政府が南部信民の遺領 10,000石を南部信方に改めて下賜。
- 1869年(明治2年) - 版籍奉還により南部信方が藩知事となる。
- 1870年(明治 3年)閏10月 -七戸通惣百姓一揆
- 1871年(明治 4年) - 廃藩置県により七戸藩は廃藩となり七戸県を経て、弘前県から青森県に至る。
歴代藩主
城地
藩の居城
- 七戸城(青森県上北郡七戸町)