陣屋事件
陣屋事件(じんやじけん)は、1952年(昭和27年)2月18日、神奈川県の鶴巻温泉の陣屋旅館で行われる予定だった、将棋の王将戦第1期第6局で、升田幸三が木村義雄との対局を拒否した事件。
事件の経緯
当時の王将戦の規定では、必ず第7局まで指されることになっており、また「三番手直り」といってどちらかが3勝差をつけた時点で半香落ち(平手と香落ちを交互に指す)の手合割で指すことになっていた。この時点で升田(当時八段)が4勝1敗として木村(当時王将・名人)から王将位を奪っており、第6局は升田の香落ちで指される予定だった。高柳敏夫八段は「玉音放送以上の衝撃だった」と語っている。
升田の証言によると、対局前日に陣屋旅館に向かった升田が、玄関のベルを何度押しても関係者が迎えに来ず、非礼だと怒って別の旅館へ向かったという。これを知った丸田祐三ら関係者が升田を呼びにいったが、升田は頑として応じず、対局は実施されなかった。
日本将棋連盟はこの事態を重く見て、升田の除名も検討し、理事会で1年間の対局禁止を決めた。だが升田の所属する関西を中心とした棋士たちの反発は大きく、一時は関西の理事全員が辞表を出し、将棋連盟の東西分裂の事態も予想された。最終的には木村名人の判断にゆだねられ、升田と理事会双方が遺憾の意を表明し、升田は即日復帰、理事の辞表も受理しないこと、第6局は升田の不戦敗、第7局は予定通り平手で指すことで決着がついた。
陣屋旅館関係者の話によると、旅館にベルは元々つけられておらず、自分たちの不手際ではないとのことである。事件の真相は不明であるが、時の名人に対して駒を落とすことが、名人の権威を汚すことになるのではないかと考えた升田が、ベルが鳴らないことを口実に対局を拒否したのではないかといわれている。升田は将棋界に入る際、実家の物差しの裏に「名人に香を引いて(落として)勝つ」と書き置きしたといわれている。その一方で、王将戦の三番手直り制度を導入する際において、名人が香を落とされた事態になったら名人の権威に傷が付くと強く反対したという[1]。
その後
後日、升田は陣屋旅館に対し、非礼をわびたのだろうか、「強がりが雪に轉んで廻り見る[2]」
陣屋旅館では事件をきっかけに陣太鼓を取り付けた。棋士で観戦記者でもある山本武雄のペンネーム「陣太鼓」はこれに由来している。
升田は翌1952年度の王将戦で、大山康晴名人と「被挑戦者決定戦」[3]を戦って敗れ、王将を失冠した。そして、1955年度の王将戦では升田が大山名人に3連勝して指し込みとなり、さらには香落ちの第4局でも升田が勝利を収め、「名人に香を引いて勝つ」こととなった。
升田以降に名人を指し込む事例はなく、王将戦も1965年度の制度変更[4]で香落ち局が指されることはなくなった[5]。
脚注
参考文献
- 加藤治郎・原田泰夫・田辺忠幸 『[証言]将棋昭和史』 毎日コミュニケーションズ、ISBN 4-8399-0255-0