真田守信
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真田 守信(さなだ もりのぶ)は、真田信繁の次男。通称は四郎兵衛、久米之介。号は一貫斎。
生涯
慶長17年(1612年)、真田信繁の次男として紀伊国九度山で生まれる。幼名は大八。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で父信繁と兄大助(幸昌)を亡くすが、西村孫之進と我妻佐渡守に守られて落ち延び、片倉重長に保護された。その後、片倉家の家臣として召し抱えられ、真田守信を称した。
寛永元年(1624年)頃、伊達家は高野山蓮華定院に「大八君八歳の時京都にて印地打ち観覧中石に当たり他界」という虚報を流して守信の存在を隠した。
また、寛永17年(1640年)に幕府から伊達家に守信の調査が命じられた時にも、伊達家は守信を「真田信尹の次男・政信の子」だと偽証した(実際には信尹の次男に政信という人物は存在しない)。その際、片倉守信(かたくら もりのぶ)と改名し、300石を与えられて仙台藩士となった。
守信は真田信繁(真田幸村)の血筋を受け継ぐ4人の男子の中で、ただ一人真田姓を受け継いでおり(嫡男は未婚、三男・四男は他姓を名乗る)、息子辰信の代において、「既に将軍家を憚るに及ばざる」と内命を受けたことで、公けに真田姓を名乗ることが許された。そして、守信の子孫は仙台真田家として今なお続いている。テンプレート:Japanese-history-stub