榊原政岑
テンプレート:基礎情報 武士 榊原 政岑(さかきばら まさみね)は、江戸時代中期の旗本、大名。播磨姫路藩の第3代藩主。榊原家宗家の8代当主。
生涯
家督相続
正徳3年(1713年)、旗本1000石の榊原勝治の次男として生まれる。はじめ父の遺命により、榊原氏ゆかりの大須賀姓を称して大須賀高胤と名乗った。しかし家督を継いでいた兄・勝久の死去を受け、享保16年(1731年)12月27日に兄の養子として家督を継ぎ、榊原勝岑と称した。享保17年(1732年)8月23日、今度は本家の姫路藩主・榊原政祐の末期養子となって、8月29日の政祐の死去により、10月13日に宗家を継承することとなった。
遊女遊び
政岑は将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視して贅を尽くし、奇抜な服装で江戸城大手門を警備し、吉原で派手に遊興にふけった。寛保元年(1741年)春には新吉原の三浦屋の名妓・高尾太夫を1800両(2500両とも)で身請けするなど、奢侈を好んだ。さらに高尾のために豪勢な酒宴を開き、その費用は3000両を超えたといわれている。これは尾張藩主徳川宗春の乱行同様、享保の改革に対する抵抗と見なされ、吉宗の怒りを買った。
吉宗は政岑に対し寛保元年(1741年)10月に出府を命じ、老中松平乗邑により政岑の乱行の調査が行われた。吉宗自身は改易の考えさえあったようであるが、重臣の尾崎富右衛門による懸命な弁明により、10月13日に政岑は吉宗より強制隠居の上で蟄居を命じられ、家督は嫡男の政永が継ぐことを許されたものの、越後高田に懲罰的な転封を命じられた。
越後高田での治世
政岑は処罰を受けたことがこたえたのか、寛保2年(1742年)に高田藩に移ってからは子の政永の後見人として藩政の再建に努めた。高田藩では歴代藩主の借財にあふれて財政が苦しかったが、政岑は率先して倹約に励み、新田500町歩の開墾や灌漑工事を行ない、さらに生活苦の多い農民を助けるために竹細工の講習会を開いて副業を奨励するなど、政務に励んだ。
寛保3年(1743年)2月19日に死去した。享年31。
人物
- 将棋や三味線・浄瑠璃などに堪能で遊び好きであったことから、風流大名とも好色大名ともいわれている[1]。
- 出入りの八百屋の新助と、新助が負ければ大鉢で酒を飲む、政岑が負ければ新助に千両を与える、という賭け将棋をし、最初はわざと負け、もう一度指して勝って取り戻したという逸話がある。
- 姫路藩主時代、長壁神社の祭礼に際して町人に浴衣姿での参加を認めたことが、後の姫路市を代表する祭りの一つ「姫路ゆかたまつり」の起源とされている。ただし、史実では転封された後に祭りが行われている。
年譜
- 1713年(正徳3年):生まれ
- 1731年(享保16年):旗本榊原家相続
- 1732年(享保17年):榊原家相続(10月13日)
- 1741年(寛保元年):蟄居・隠居(10月13日)
- 1743年(寛保3年):死去、享年31