マービン・ハグラー
マーベラス・マービン・ハグラー(Marvelous Marvin Hagler、男性、1954年5月23日 - )は、アメリカ合衆国のプロボクサー。1980年から1987年までの間に、統一世界ミドル級王者として12度もの防衛を重ねた名王者。サウスポーのオールラウンド・ファイター(サウスポースタイルだが元々右利きで右強打が武器だったので右構えにスイッチすることも多かった)で、あらゆるテクニックと強打、試合運びの巧さ、強靭なメンタルを備え、「ミスター・パーフェクト」と呼ばれた。
人物
ニュージャージー州ニューアーク生まれ、マサチューセッツ州出身。家族は夫人と5人の子供。現在はイタリア在住。ニックネームは「マーベラス」(驚異的)。
スキンヘッドと彫像のように鍛え上げた褐色の身体が特徴。(アマチュアの頃は毛をはやしてた。)パンチ力、強固なガード、タフネス(打たれ強さ)など、完璧なテクニックとハングリー精神を兼ね備える。同時代に活躍したシュガー・レイ・レナード、トーマス・ハーンズ、ロベルト・デュランのような派手な言動は好まず、現役時代は酒や煙草はもちろん、菓子やコーヒーすら口にしない修行僧のような生活を送った。
専門誌のパウンド・フォー・パウンドのランキングでは常に上位に名前が挙がり、その実力はミドル級史上でも屈指と評される。レナード、ハーンズ、デュランとともに1980年代の「中量級黄金時代」を築き上げた。
経歴
プロデビュー前
貧しい母子家庭に生まれ、学校は9歳で退学。ヘビー級王者フロイド・パターソンに憧れてボクサーを志す。アマチュアのリングで活躍し、1973年にAAU165ポンドの国内王者となった。
プロボクサー時代
1973年5月18日2RKOでプロデビュー。
- 順調に白星を重ねるが、その強さに王者が対戦を忌避し、「無冠の帝王」の称号を与えられる。
1974年11月26日レイ・シールズに10R引き分け
1976年1月13日ボビー・ワッツに10R判定負けでプロ初黒星を喫する。3月9日にウィリー・モンローに判定負け。しかし、シールズ、ワッツ、モンローとは後に再戦しKOで雪辱。
- 1979年11月30日、ビト・アンツォフェルモの世界ミドル級タイトルに挑戦。ハグラー圧倒的有利の下馬評だったが、王者のインファイトに苦しみ引き分けに終わる。
- 1980年9月27日、技巧派のアラン・ミンター(イギリス)に3回TKOで勝ち、世界ミドル級タイトルを獲得(プロデビューから7年、54戦目)。
- フルヘンシオ・オベルメヒアス、アンツォフェルモ、ムスタファ・ハムショ、ウィリアム・リー、トニー・シブソン、ウィルフード・サイピオン、ロベルト・デュラン、トーマス・ハーンズ、ファン・ドミンゴ・ロルダン、ジョン・ムガビなど最強の挑戦者相手に12連続防衛(11KO)。
- 13度目の防衛戦でシュガー・レイ・レナードに1-2(115-113、110-118、113-115)の判定で敗れて引退した。
エピソード
- マネージャーやトレーナーを頻繁に変えるアメリカのボクサーにしては珍しくデビュー前からペトロネーリ兄弟とのコンビを組み続けた。
- ハーンズとのタイトルマッチは「THE FIGHT」、レナードとのタイトルマッチは「THE SUPER FIGHT」と銘打たれた。
- レナード戦の判定については非常に不満があった模様で「連中が俺からタイトルを取り上げて、それをよりによってレナードにやっちまったってのは、たまらないな」と発言している。
- レナードとの再戦が実現しないまま引退した際「心はイエス(現役続行)だが、頭がノー(引退)と言っている」とのコメントを残した。
- 引退後のインタビューにおいて、レナード戦にまつわるリング外での雑多な交渉、紆余曲折(レナードの高額報酬要求、12回戦での対戦を望んだレナードのため、保持していたWBAおよびIBF王座を放棄せざるを得なかったこと、その末の僅差判定負け、再戦についての条件面での不満など)に嫌気がさしたことを語っている。
- テレビのボクシング番組で、アナウンサーがニックネームである「マーベラス(Marvelous)」に言及しないことに不満を抱いたハグラーは、1982年、法的な氏名をMarvelous Marvin Haglerに変更した[1]。
脚注
関連項目
- 男子ボクサー一覧
- 世界ボクシング協会(WBA)世界王者一覧
- 世界ボクシング評議会(WBC)世界王者一覧
- 国際ボクシング連盟(IBF)世界王者一覧
- 世界ボクシング殿堂
- 国際ボクシング名誉の殿堂博物館
- 統一世界王者
外部リンク
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