マンスール
テンプレート:複数の問題 マンスール(テンプレート:Lang-ar Abū Jaʻfar ʻAbd Allāh ibn Muḥammad al-Manṣūr、712年 - 775年)は、アッバース朝の第2代カリフ(在位: 754年 - 775年)。
生涯
預言者・ムハンマドの叔父・アッバースの曾孫・ムハンマドと、ベルベル人女奴隷の間の子。アッバース朝初代カリフであるアブー・アル=アッバース(サッファーフ)の兄にあたる[1]。
即位前はジャアファルの父を意味するクンヤ名、アブー・ジャアファルを名乗っていたが、カリフ位に就いたときに「勝利者」を意味するラカブ名、マンスールを名乗った。したがって、フルネームの意味は「ジャアファルの父・アッラーフの僕・ムハンマドの息子・勝利者」となる。
即位前は弟とともにアッバース革命によってウマイヤ朝を滅ぼすのに貢献した。754年、弟が死ぬと叔父や創業の功臣であったアブー・ムスリムらを殺害して第2代カリフとして即位する。このため、王朝内部でマンスールに対して不満を持つ一派が各地で反乱を起こしたが[2]、それらを全て鎮圧して王朝の支配を磐石なものとした[3]。
762年から766年にかけては新都を建設[4]して「マディーナ・アッ=サラーム」(平安の都の意。現在のバグダードにあたる)と名づけた。また天文学を導入して文化面において大いに発展を尽くした[5]。
国制においてはサーサーン朝の制度を導入して中央政庁に宰相を設置して官僚制度を整備する。また、街道や要路を整備して宿駅を設けて飛脚制度を確立し、監察官やスパイを派遣して地方政治を監視し[6]、中央集権化を推進した。このマンスールの治世によりイスラム法のシャリーア(アッラーの定めた法律)が完成し、国法となった。
対外的には弟の時代に交戦した唐に対して、756年には長安に使者を送って友好関係を結んだ(唐書)。
775年、メッカへ巡礼に向かう途中で病死した。後を子のマフディーが継いだ。
人物・エピソード
- アッバース朝の基礎を固めた人物であり、マンスールの孫で第5代カリフであり、王朝の全盛期を築き上げたハールーン・アッ=ラシードと並ぶ名君と称されている。
- マンスールは不正を極度に嫌い、我が子や弟も平等に罰したという。一方で彼は信心深くて酒も飲まず質素で、国庫に大金を集めてアッバース朝が以後500年にわたって続く基礎を築き上げた。
- 文化面ではかなりの才能と理解を持ち、常に歴史の本を読み、ギリシアやインドの学者と学問の話をするのを趣味にしていたという。また、その学者たちに各国の科学書などを翻訳させたため、アッバース朝で科学が急速に発展する一因を成した。
- 賢君としての逸話が多いマンスールだが、一方で自らに逆らったアリー家の一族を殺害したとき、その耳にラベルをつけた死体が山のようになって宮殿の一室に隠されていたと伝わる。
- マンスールの死は胃病が原因と伝わるが、晩年のマンスールは後継ぎの息子・ムハンマド(マフディー)の力量を疑問視して廃嫡しようと考えていたといわれており、息子の一派に毒殺された可能性もある。なお、遺言でその遺骸は隠されたといわれている。
脚注
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- ↑ 兄であるのに即位の順が逆になったのは、生母が奴隷だったためという
- ↑ シリア総督で叔父のアブド・アッラーフがマンスールの生母に問題ありとして自らカリフを自称したが、アブー・ムスリムによって鎮圧させた。また、2度にわたるシーア派の反乱も鎮圧した
- ↑ ホラーサーンで勢力を築いていた実力者アブー・ムスリムを反乱鎮圧の凱旋中にハーシミーヤに招いて謀殺した
- ↑ 新都建設の際、側近に候補地の調査をさせ、自らも探し回ったという逸話がある
- ↑ バグダードはサーサーン朝時代から農産物の集散地で定期市も開かれていたティグリス川西岸の交通の要衝で、マンスールは「ここは軍隊の駐屯地として安全であり、我々と中国とを隔てるものは何も存在しない。ティグリス川を通じれば、海(ペルシア湾)からのあらゆる物産と北イラクやアルメニアなどからの食料が入手可能である。またユーフラテス川は、シリアやラッカなどからどんな物質も運んでくれる」と語ったという
- ↑ 「各地に派遣されたバリード(駅伝)の担当者は、毎日カリフ・マンスールのもとに手紙を書き送り、小麦、その他の穀物、食料などの価格、担当地域での裁判官(カーディー)の業務内容、総督の仕事振り、国庫収入の状況などを報告した」(歴史家タバリーの『使徒たちと諸王の歴史』)