旅順港閉塞作戦
旅順港閉塞作戦(りょじゅんこうへいそくさくせん)とは、1904年(明治37年)2月からの日露戦争において、大日本帝国海軍が行ったロシア帝国海軍旅順艦隊の海上封鎖作戦(閉塞作戦)である。三次に亘って行われたがいずれも失敗に終わった。
背景
朝鮮半島をめぐり日露関係が悪化すると、日本では対露戦を想定して作戦計画が考えられるが、主戦場が中国大陸(満州)のために日本は陸軍に対する補給を海上輸送に頼らなければならない事情にあった。また世界最強と謳われたバルチック艦隊と旅順艦隊(太平洋艦隊)が合同した場合には、日本側が不利であると判断した。
秋山真之はアメリカ合衆国へ留学して兵学研究を行い、観戦武官として米西戦争に参加し、艦隊による近接封鎖からサンチャゴ閉塞作戦とサンチャゴ・デ・キューバ海戦に至る経過を観戦し、海上戦力の理論的研究を行っていた。秋山は封鎖にはリスクが大きいと考えていたが、二等戦艦「鎮遠」を用いて湾口を閉鎖する作戦を計画し、有馬良橘中佐は機密で旅順の実地調査を行って封鎖作戦を研究し、1903年(明治36年)にバラストを満載した古い艦船を湾口に沈め、幅273mの旅順港の入り口を閉塞する作戦を軍令部に対して提出していた。連合艦隊司令部が発足すると、作戦計画である「機密第一二〇号」が発せられる。開戦当初の作戦計画では、海軍は旅順、仁川のロシア艦隊の撃破と、陸軍への支援が任務とされ、連合艦隊司令長官の東郷平八郎や参謀長の島村速雄は閉塞作戦を見送った。
連合艦隊は第一次・第二次の旅順艦隊攻撃を行い、湾外に出ての戦闘を回避して安全な湾内に留まる旅順艦隊に対し、水雷艇での奇襲や湾口への機雷の敷設を行うが、沿岸砲台で防備された旅順港内の艦隊には決定的打撃は与えられずにいた。
経過
閉塞作戦は三次に亘って実行された。
第一次閉塞作戦は、1904年2月24日未明に実施された。5隻の老朽船と77名の志願兵を集めて決行したが、ロシア軍の沿岸砲台が閉塞部隊に激しい砲撃を浴びせたため、作戦は失敗した。機関兵1名が死亡した[1]。
ロシア側では3月に太平洋艦隊の司令長官がオスカル・スタルクからステパン・マカロフ中将に代わり、マカロフは部隊の組織的改革と湾内警備の強化、日本海軍の航路を研究しての機雷敷設を行い、戦艦「初瀬」や戦艦「八島」を沈没に至らしめるなどの打撃を与えた。マカロフが4月13日に、座乗艦「ペトロパブロフスク」の触雷沈没により戦死すると、旅順艦隊は再び湾内に逼塞する態勢を取った。
第二次閉塞作戦は、3月27日未明に決行された。4隻の閉塞船を投入して実行されたが、またもやロシア軍に察知されて失敗した。この作戦においては、閉塞船「福井丸」を指揮した広瀬武夫少佐(のち中佐に特進)が戦死し、のちに軍神とされ崇められた。また、杉野孫七上等兵曹[2](没後、兵曹長[3])、信号兵曹、機関兵の計4名が戦死している[1]。
第三次閉塞作戦は、5月2日夜に実施された。12隻もの閉塞船を用いた最大規模の作戦であったが、天候不順と陸上砲台からの迎撃で失敗する。この際、野村勉少佐、向菊太郎少佐、白石葭江少佐、湯浅竹次郎少佐、高柳直夫少佐、内田弘大尉、糸山貞次大尉、山本親三大尉、笠原三郎大尉、高橋静大尉、寺島貞太郎機関少監[4]、矢野研一機関少監、岩瀬正機関少監、清水機関少監、青木好次大機関士のほか、多数の准士官、下士及び卒らも戦死又は行方不明となっている[1]。
その後
ロシア側ではウラジオストク巡洋艦隊を派遣させ、バルチック艦隊の回航を決定する。それまで陸軍の介入を拒否していた海軍だが、旅順港の閉塞作戦に失敗した事を受けて陸軍に対して旅順(旅順要塞)の攻略を要請。陸軍は準備していた乃木希典大将を司令官とする第三軍を編成して旅順攻囲戦を行う。艦隊は攻略戦の渦中で占領した大弧山や海鼠山などの地点からの観測による射撃や黄海海戦で無力化され、乗員は要塞防衛の補充兵として投入。最後はキングストン弁を開いて自沈し、要塞を占領することで完全に殲滅された。
閉塞船
第一次閉塞作戦
第二次閉塞作戦
- 千代丸:有馬良橘中佐 他16名
- 福井丸:広瀬武夫少佐 他16名
- 弥彦丸:斎藤七五郎大尉 他14名
- 米山丸:正木義太大尉 他14名
第三次閉塞作戦
- 総指揮官:林三子雄中佐
- 第一小隊
- 第二小隊
- 第三小隊
- 第四小隊
向、高柳、野村、白石、湯浅の各大尉は戦死とされ少佐へ進級した。