オットー2世 (神聖ローマ皇帝)
オットー2世(Otto II., 955年 - 983年12月7日)はドイツ王(在位:961年 - 983年)、神聖ローマ皇帝(在位:973年 - 983年)。ザクセン朝第3代の王。オットー1世とその2番目の妻ブルグントのアーデルハイトの息子。偉大なる父の偉業を受け継いで、その版図の拡大・皇帝権の強化を図ったが、帝国各地の反乱に苦しみ、28歳でマラリアのために急逝した。
生涯
961年にヴォルムスにおいて父オットー1世に共同統治を行うドイツ王に選ばれ、同年アーヘンで戴冠した。これには母アーデルハイトの強い意向があったと考えられる。973年にローマで教皇ヨハネス13世により共同皇帝として戴冠される。神聖ローマ帝国の正統性については、東ローマ帝国から強い反対があり、両国は968年から971年にかけて、イタリアのプッリャ(ドイツ語ではアプリーエン)で戦争を行った。その間、東ローマ帝国ではニケフォロス2世フォカスが暗殺され、皇位を簒奪したヨハネス1世ツィミスケスは講和を選ぶという、ドイツにとっては思いがけなく有利な展開となった。オットー2世はツィミスケスの姪テオファヌと972年結婚した。ローマでの結婚後ただちにテオファヌは教皇から4月14日神聖ローマ皇后として戴冠された。
983年、父帝の死後、神聖ローマ皇帝位を継承したオットー2世は、間もなく各地の反乱鎮圧に奔走することになった。帝国南部では、従弟でオットー1世の弟ハインリヒ1世の子バイエルン公ハインリヒ2世が、かねてから王を無視する姿勢をみせていた。それゆえ973年末、ハインリヒ2世の権力削減を図ったが、これが武力反乱を招き、鎮圧には978年まで時を要した。帝国西部では、下ロートリンゲン大公の任命問題から西フランク王国と対立、やはり武力衝突へと至る。この東西フランク王国の対立は980年に和解、ようやくアルプス以北を平定する。
980年末よりイタリア遠征を行い、北イタリア各地を巡行したのちにローマに入った。当時、対立教皇ボニファティウス7世と争っていた教皇ベネディクトゥス7世の地位を安定させ、981年の感謝祭をローマで祝う。その後、イタリア全土に皇帝支配を及ぼそうと、当時東ローマ帝国の影響下にあったイタリア南部に遠征する。一時は戦いを優勢に進めたが、当時の地中海世界ではイスラム教徒が強勢を誇っており、シチリア島から北上したイスラム軍に完敗した。
その後もイタリアに留まったが、間もなく帝国の東北部で西スラヴ族の反乱が勃発する。この際にブランデンブルクなどが襲撃を受けて破壊され、帝国の版図は縮小する。その対応に乗り出そうという最中の983年12月7日、その命を不幸にもマラリアが奪った。28歳であった。
家系
テオファヌとの間に4人の子を儲けた。