管弦楽のための協奏曲 (バルトーク)
テンプレート:Portal クラシック音楽 管弦楽のための協奏曲(かんげんがくのためのきょうそうきょく)は、バルトーク・ベーラが1943年に作曲した5つの楽章からなる管弦楽曲である。バルトークの晩年の代表作であり、最高傑作のひとつにも数えられる。
- 原語曲名:Concerto for Orchestra(英語)
- 演奏時間:約38分
- なお作曲者の総譜上の指示は「第1楽章9分48秒、第2楽章6分17秒、第3楽章7分11秒、第4楽章4分8秒、第5楽章8分52秒(改訂前の結尾)で、全曲はおおよそ37分。」
- 作曲時期:総譜のバルトーク自身の書き込みによれば、1943年の8月15日から10月8日にかけて作曲。
- 初演:1944年12月1日にボストン市にてセルゲイ・クーセヴィツキー指揮のボストン交響楽団による。
概説
この曲は1943年当時ボストン交響楽団の音楽監督だったクーセヴィツキーが、自身の音楽監督就任20周年を記念する作品として、また亡くなったナターリヤ夫人の追憶のための作品として、彼女と共に設立した現代音楽の普及を目的としたクーセヴィツキー財団からの委嘱としてバルトークに作曲を依頼したことにより作曲された。
アメリカへ移住したバルトークは、完全に創作の意欲を失っており、この委嘱が無かったら、弦楽四重奏曲第6番がバルトークの最後の作品になっていたであろうと考えられている。そもそもクーセヴィツキーの依頼自体が、当時健康状態の悪化で病院に入院し、ライフワークである民俗音楽の研究すら出来ず、戦争による印税収入などのストップによる経済的な困窮も相まって強いうつ状態にあったバルトークを励まそうと、バルトークがハンガリーから移住する手助けをしたフリッツ・ライナーやヨーゼフ・シゲティら仲間がクーセヴィツキーに提案して行われた、とも言われる。ブージー・アンド・ホークス社の現在の版の前書きによると、クーセヴィツキーは委嘱のためにバルトークの病室を訪れる際に当時としては破格の1000ドルの小切手を持参した。
この委嘱はバルトークに創作意欲を取り戻させただけでなく、周囲の人には生命力さえ呼び起こしたように見えたようだったという。体力的に作曲できるかわからないと渋っていたというバルトークに、クーセヴィツキーは「この委嘱には期限がない」と説得したというが、結果的には「作曲者・著作者・出版者の為のアメリカ協会 (the American Society for Composers, Authors, and Publishers) 」の世話で滞在したニューヨーク郊外のリゾート地・サラナック湖で作曲に着手すると、たった2ヶ月でこの作品を仕上げる。その後1945年に死去するまでこの曲以外にも『無伴奏ヴァイオリンソナタ』や『ピアノ協奏曲第3番』などの作品を残している。
なおこの曲の発想には、彼の楽譜を出版しているブージー・アンド・ホークス社の社主ラルフ・ホークスが1942年にバルトークに送った「バッハのブランデンブルク協奏曲集のような作品を書いてみたらどうでしょう」という書簡や、バルトークがアメリカ移住時に携えてきた盟友コダーイの同名の作品(1939年作)の影響を指摘する声もある。
初演に際してバルトークは医師の忠告を無視してボストンに行き、リハーサルから立ち会った。当時のボストン交響楽団メンバー、ハリー・ディクソンの回想によると、リハーサルでのバルトークは「大きすぎる」「急ぐな」と再三にわたり曲を止めて指示を出していたので、業を煮やしたクーセヴィツキーは「ご意見をメモしておいてはいかがでしょう。あとで検討しましょう」とその場を乗り切った。休憩時間中二人は話し合い、バルトークは帰っていった。リハーサルに戻ったクーセヴィツキーは「問題は全て解決した」と楽団員に語ったという。初演も成功に終わり、彼は何度も舞台に出ては聴衆の喝采に応えたことを友人に話したり手紙で送ったりしている。そしてこの曲は一気にポピュラーになり、彼の代表作として演奏会レパートリーとして定着している。
自身による改訂
出版譜は、バルトークが初演を聴いた際の反省に基づいて1945年2月に改訂を加えた形で刊行されている。初演からの大きな変更点として、終楽章のコーダの部分が長くなった新しいバージョンが加えられたことがある。
追加版は補遺として一部の小節の重複を含めて後のページに収録し、改訂前後の両方を確認できるようになっているため、改訂前と改訂後の両方の版が演奏されているが、バルトーク自身が手紙の中で「エンディングが唐突過ぎる感がある」と述べている初演の反省を元に書き加えたという経緯があることと、演奏効果的にも派手であることから、改訂後のバージョンを採用する演奏が圧倒的に多い。
なお、改訂前の版は小澤征爾[1]などがレコーディングしている他、ナクソス・ヒストリカルからクーセヴィツキーによるライヴ録音(1944年12月30日録音)も発売されている。
曲の構成
五つの楽章からなり、交響曲と言っても良い規模を備えている。ただし作曲者自身が初演のプログラムに寄せた解説でも述べているように、オーケストラの各楽器をあたかも独奏楽器のように扱ったり、全合奏と室内楽的アンサンブルが交錯するような楽曲構造をとっていることから、「協奏曲」と言う名が与えられている。また各楽章のタイトルはバルトーク自身による。
- 第1楽章 Introduzione(序章)
- Andante non troppo - Allegro vivace
- 第2楽章 Giuoco delle coppie(対の遊び)
- Allegro scherzando
- 三部形式。最初と最後の小太鼓のリズムが特徴的。その間では、対になった木管楽器群が旋律を吹く。それぞれのパッセージで、対になっている二管のなす音程は異なる。たとえば、ファゴットは短六度、オーボエは三度、クラリネットは七度、フルートは五度、トランペットは二度といった具合である。スケルツォのような雰囲気を漂わせるが、中間部では一転して金管の静かなコラールが聞こえる。
- ゲオルク・ショルティが1980年にシカゴ交響楽団とこの作品を録音した際、ショルティはライナーノート(英語版)に、当初出版譜の発想記号及びメトロノーム指定が間違っていた件の他、アメリカ議会図書館に所蔵されている自筆スコアでは、タイトルが一度“Presentando le coppie”(意味的にはほとんど同じ)となっていたと言う文章を寄せている。
- 第3楽章 Elegia(悲歌)
- Andante non troppo
- バルトークの典型的な「夜の歌」。彼独特のアーチ形式(A-B-C-B-A)をとり、Bの主題は第1楽章の序奏の主題が再帰してくる。中間部(C)のヴィオラから始まる旋律には、バルカン民謡の特徴が垣間見られるとも言われる。
- 第4楽章 Intermezzo interrotto(中断された間奏曲)
- Allegretto
- 第5楽章 Finale(終曲)
- Pesante - Presto
楽器編成
木管 | 金管 | 打 | 弦 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
Fl. | 3 (Pic.1) |
Hr. | 4 | Timp. | ● | Vn.1 | ● |
Ob. | 3 (Ehr.1) |
Trp. | 3 | 他 | Cym., Tri., B.D., S.D., Tam-t., 吊り下げ式のシンバル | Vn.2 | ● |
Cl. | 3 (B.Cl.1) |
Trb. | 3 | Va. | ● | ||
Fg. | 3 (Cfg.1) |
Tub. | 1 | Vc. | ●
<tr><td style="background:#9f6;">他</td><td></td><td style="background:#ff6;">他</td><td></td><td style="background:#fcc;">Cb.</td><td>●</td></tr> <tr><td colspan="2">その他</td><td colspan="6">Hp.2</td></tr> |
脚注
- ↑ 小澤征爾指揮ボストン交響楽団、RCAレコード1962年発売