ベーラ3世
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ベーラ3世(III. Béla, 1148年 - 1196年4月23日)は、ハンガリー王国アールパード朝の国王(在位:1172年 - 1196年)。ゲーザ2世の次男。
即位前は人質として東ローマ帝国の皇帝マヌエル1世コムネノスのもとで過ごした。マヌエル1世は40歳を過ぎても男児に恵まれなかったため、聡明なベーラ3世を娘婿に迎えてマヌエル1世の祖父の名である「アレクシオス」という名とデスポテース(専制侯、当時は皇帝に次ぐ地位)の位を与え、帝位継承者として遇したが、1169年にマヌエル1世に男児が誕生したこと(後のアレクシオス2世コムネノス)、1172年に兄でハンガリー王であったイシュトヴァーン3世が嗣子なくして死去したこともあって、ベーラ3世は帰国し、ハンガリー王として即位することとなった。
即位後は貴族らの内紛を鎮め、東ローマ帝国と同盟を結んだ。ミュリオケファロンの戦いでも援軍を送っている。1180年にマヌエル1世が死ぬと積極的な対外進出を行ない、ボスニアやセルビア、クロアチア、ダルマチア、ヴェネツィア共和国からのザラ奪取など、その戦果には目覚ましいものがあった。
ベーラ3世の時代にハンガリー王国は全盛期を迎えた。しかしベーラ3世の死後、長男のイムレ1世と次男のアンドラーシュ2世(エンドレ2世)との間で王位継承争いが起こった結果、王国は混乱し、衰退することとなった。
現存する聖イシュトヴァーンの王冠はこの時代に作られたと考えられている。
結婚
- マリア・コムネナ(マヌエル1世コムネノスの皇女) - 1163年婚約、1169年破棄。
- アニェス・ド・シャティヨン(アンティオキア女公コンスタンスとルノー・ド・シャティヨンの娘) - 1172年結婚、6子をもうけた。
- マルグリット・ド・フランス(フランス王ルイ7世の三女。イングランド王ヘンリー2世の嗣子および共同君主若ヘンリーの未亡人) - 1186年結婚。子供はいなかった。
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