冀東防共自治政府
冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)は、1935年から1938年まで中国河北省に存在した政権。地方自治を求める民衆を背景に殷汝耕の指導により成立した。国旗には中華民国が最初に定めた五色旗を使用した[1][2]。
目次
歴史
塘沽協定
テンプレート:Main 1933年5月31日、日本と中国との間で塘沽協定が締結され、中国側に非武装地帯を設定し、治安は中国側警察が担当することとされた[3]。その範囲は延慶、昌平、高麗、順義、通州、香河、寶牴、林亭鎮、寧河、蘆台を結んだ線を境界としてその以北、以東と決められた[3]。
梅津・何応欽協定と土肥原・秦徳純協定
1935年6月10日には梅津・何応欽協定[4]、同月27日には土肥原・秦徳純協定が成立した[5]。両協定によって国民政府と中国国民党が中国北部に置いていた機関や部隊がいくつか廃止あるいは移動させられた[6][5]。梅津・何応欽協定に関しては中央直属駐平憲兵第三団が北支から撤退し、国民革命軍の第五十一軍、旧東北軍、および第二師と第二十五師が移駐した[4]。土肥原・秦徳純協定に関しては宋哲元の二十九軍が移動させられている[5]。
河北自治運動
1935年10月21日河北で民衆運動が発生した[7][8]。最初の運動は香河県の有力者・武玉亭を指導者とし[9][10]、 減税と自治を要求し[9][11]、ライフルとショットガンで武装していた[11]。これらの運動には日本人の「浪人」が参加していたため、日本の憲兵隊がその中の6人を逮捕して取調べを行い、監視の下、天津に移送した[11]。
これらの民衆運動は日本側の華北分離工作に伴う支援を受けていたと言われることがある[12]。実際に運動の背後にいくらかの日本人がいることに納得しているとする報告が河北省主席・商震から南京政府に提出されたが[13]、日本側は関与を否定し[10]、中国側もその証拠を見つけることができなかった[13]。
また、民衆運動は農民運動と称しながらも実際は雇われた浮浪者によるもので権力の外にある中国の政治家・将軍が乗じる恐れも指摘された[14]。 日本側は権力の外にある中国側のグループが扇動された運動に日本の軍事的影響力を巻き込もうとするなら、それが如何なる動きでも日本軍当局はすばやく対応すると声明を出していた[14]。
10月23日には民衆運動が香河県城を占拠し[10]、「中国国民党打倒」「官吏の罷免」「孫文の建国大綱に基づく地方自治と農民救済を要求する宣言」を発表し、運動は河北省全域に波及する情勢となった[11][15]。宣言内容では自治を原則とし、土地の公有反対、共産勢力に対する警戒、農村救済、減税、福祉増進を挙げていた[10][16]。同日、河北省各県代表連席会は緊急会議を開催し、重税に反対する運動を支援する方針を決議した[10][16]。
当時の日本ではこの運動の根本原因には国民政府による搾取があると報道された[17]。10月27日には話し合いの末、保安隊により香河県城が接収され、その地域では解決したが[18]、自治を求めて次々と蜂起が続いた[19]。
河北省首席・商震は国民政府の意向を受け、事態の収拾に当たったが、自治運動が塘沽停戦協定で決められた非武装地帯内で発生したことから武力鎮圧をおこなうことはできなかった(自治運動を起こした側もこの点を考慮したと見られる)[20]。一方日本軍中央でも中国北部の農民運動に対して中国政府が武力鎮圧することを牽制していた[21]が、 商震の斡旋と日本軍司令官・多田駿少将の和平工作により自治運動は小康状態となった[22][23]。
国民政府の銀国有令
中華民国では継続していた輸入超過のための対外決済とアメリカの銀買入政策に起因する銀の海外流出のために政府系銀行の準備銀が急激に減少した[24]。金融破綻を恐れた国民政府は1935年11月4日突如として以下のような銀国有化と紙幣の強制運用の布告を出した[25]。
- 1935年11月4日より、中央、中国、交通三銀行発行の銀行券は完全なる法定通貨たるべく、租税の徴収、公私債務の支払いは一切法定通貨を以って決済せらるるものとす。
- 銀弗、銀塊を通貨の目的に使用することは一切之を禁止す。本条項に違反する場合は当該通貨全部を差押え没収するものとす。
- 何人たるを問わず故意に銀弗、銀塊を隠匿又は不法に所有流通するものあるときは、緊急治罪法を以って処断す
- 三銀行以外の発行銀行券にして、すべて財政部の承認を経たるものはそのまま流通せしむ。但し各銀行の発券額は十月三日現在を超ゆることを得ず。
辛亥革命以来の軍閥諸勢力興亡の度に地方政権により発行された紙幣は、あるものは暴落し、あるものは廃棄された歴史を持ち、中国民衆にとって紙幣の信用は低く、また特に金融知識に疎い農民層における売買取引は従来殆ど現銀交易のみであったことから、国民政府の銀国有と紙幣の強制運用の実施は中国北部農民に極度の不安と恐慌をもたらした[26]。一方、中央銀行を除き、全ての銀行も反対したがその理由はこの政策により直ちに所有する銀を喪失し、兌換不能による紙幣価値の下落と通貨不安による物価高騰、中国北部における経済の基本であった農民と都市の経済関係の断絶を考慮すれば経済恐慌不可避との判断であった[22]。この銀国有化の政策は中国北部の自治要求運動に新たな論拠を与え、運動の再活性化と進展を促すことになる[22]。
翌12月には、この政策に関する銀引渡しに外人銀行団が反対し[27]、広東が銀国有制度から離脱する事態となり[28]、翌年5月には新通貨政策として新銀貨発行が決められた[29]。
冀東防共自治政府成立
1935年11月20日には民衆の声が戦区自治促進会を誕生させ、その名で中国北部全民衆に対し檄文によって訴え、殷汝耕督察専員に自治独立の実行をせまった[30]。他にも薊密灤楡区民衆聯合会[31]などからの自治要望の請願書が殷督察専員に数多く届けられた[30]。
11月25日殷汝耕は中央政府と分離した自治政権「冀東防共自治委員会」を通州に樹立し、自治宣言を中外に発表して地域内民衆の自治を開始した[32]。午前8時に委員が集まり委員会結成式が行われ、また国民党旗を撤去して国民党の悪政との分離が表明された[33]。委員会は、委員長の殷汝耕の他、委員として池宗墨、王厦材、張慶余、張硯田、李海天、趙雷、李允声、殷体新が名を連ね[34]、塘沽停戦協定で軍事行動が禁止された地域をその統轄範囲とした[35]。組織としては秘書長を池宗墨としてその下に秘書処、保安処、外交処、民政庁、財政庁、建設庁、教育庁、税務管理局、北寧鉄路新楡段監理処を設け、他に委員長直属の唐山弁事処と各保安総隊を持った[36]。
同日、民間各自治団体代表者は次々に委員会に詰め掛け殷汝耕委員長に自治達成の喜びを述べるなど賑わった[33]。内外の新聞記者は真っ先に青天白日旗の掲揚に関して質問を行い、これに対し殷委員長は「目下考慮中である。当分の間青天白日旗も掲揚しない」と述べ、また外人記者からその質問が出される前に「外国の権益は十分に尊重する」と発言[33]。財政についての質問には予算額は650万元で十分とし、南京政府の補助分150万元については国税の主要な部分の差し押さえにより剰余金を生ずる程であり、農民の負債を軽減し、剰余金を農業改良に使用して綿花の栽培を奨励して模範的な農業地帯を実現させる意向を示した[33]。殷委員長の説明では委員会の管轄地区はその面積は日本の九州ほどであり、豊穣な地帯であるが政情不安のため荒廃したのであり、人口約460万の大部分をしめる農民の福利増進のため尽力するとされた[33]。この日は記者から宋哲元中心の防共自治委員会が中国北部に結成された場合はどうするかとの質問には「合流する」と即答している[33]。
12月15日殷汝耕委員長は宋哲元の自治政権が中国北部民衆の期待に反して不徹底として、その政権に不参加を表明し[37]、18日に宋が使者を送り殷に新政権への合流を求めたが殷は宋の新政権が依然として南京政府と連絡して中央との関係を離脱しないものであり、冀東政権と主義政綱が異なるため合流することはできないと回答した[38]。
12月25日委員会は改組して冀東防共自治政府を成立させ、殷汝耕が政務長官に就任し、全ての政務を掌握した[39]。
解消
1938年1月30日、北京の日本軍北支派遣軍特務部において、日本軍特務部長喜多誠一少将が立会人として列席の上、冀東政府代表池宗墨長官と中華民国臨時政府代表王克敏行政委員長が会見し、2月1日より冀東政府が中華民国臨時政府に合流することで両者の意見が一致した。合流に関する協定の調印が行われ、冀東政府は解消した[40]。
通州事件
冀東保安隊は、国民革命軍第二十九軍首脳部によって買収され、あるいは使嗾され、またあるいはその宣伝に判断を誤り[41]、通州の日本部隊が僅かであることに乗じ、1937年7月29日未明を期して冀東保安第一総隊(2,000名)、第二総隊(2,000名)、教導総隊(1,300名)及び警衛大隊(500名)からなる5,800名による反乱を起こした[42]。警衛大隊の隊長は反乱に反対したため、第一総隊隊長張慶余に射殺されたがその後蘇生した[42]。
反乱した保安隊は先ず冀東防共自治政府を襲撃して日本人顧問を殺害、殷汝耕長官を拉致し、他の一隊は通州城内の日本守備隊、特務機関、領事館、警察署を襲撃し、特務機関は細木機関長以下殆ど殉職、領警署員全滅、城内の日本人居留民は守備隊に避難収容された135名以外の250名余りの老若男女が残虐に殺害された[42]。暴徒は日本関連施設のみならず冀東政府、冀東銀行などから掠奪を行った[42]。
殷汝耕は冀東保安隊に拘束され、宋哲元に引き渡されるために北平へと護送されたが、宋はすでに北平を離れており[43]、殷の護送部隊は日本軍により蹴散らされた。しかし殷は、そのまま北平城内に逃げ込み、潜伏してしまう[44]。他の冀東防共自治政府の官吏も、反乱の勃発と同時に潜伏するか逃げ去り、日本軍が29日夕方に反乱を掃蕩するまで政府は反乱保安隊によって占拠され、従来の組織による政府は消滅した[42]。日本軍支那駐屯軍司令官香月清司中将は、治安体制の欠如した状態を憂慮し、翌30日要務連絡のため天津に来ていた池宗墨秘書長に政務長官の任を求めた[42]。
この通州事件による日本官民の被害に関しては、冀東防共自治政府が損害賠償をすることになり、同年12月24日池宗墨長官自ら北京日本大使館に森島参事官を訪問の上、賠償金120万円を手交し、事件の解決となった[45]。また事件後には、政府所在地も通県(通州)から唐山へと遷されている[46]。
脚注
参考文献
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- 陳暁清「殷汝耕」テンプレート:Cite book
- 何立波「『華北自治運動』中的冀東偽政権」『二十一世紀』網絡版総第49期、2006年4月
関連項目
- ↑ 黄 2005 p.189
- ↑ 当時の中華民国の国旗は既に青天白日滿地紅旗となっていた
- ↑ 3.0 3.1 『東京朝日新聞』1933年6月1日付朝刊 2面
- ↑ 4.0 4.1 高木 1938 p.12
- ↑ 5.0 5.1 5.2 外務省 2006 p.362
- ↑ 高木 1938 pp.11-12
- ↑ 『東京朝日新聞』1935年10月22日付朝刊 2面
- ↑ North-China Daily News, October 22 1935, p.9
- ↑ 9.0 9.1 『東京朝日新聞』1935年10月23日付朝刊 2面
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 North-China Daily News, October 24 1935, p.9
- ↑ 11.0 11.1 11.2 11.3 North-China Daily News, October 23 1935, p.9
- ↑ 中村 1983, p.32
- ↑ 13.0 13.1 North-China Daily News, October 27 1935, pp.13,21
- ↑ 14.0 14.1 North-China Daily News, October 25 1935, p.13
- ↑ 『東京朝日新聞』1935年10月24日付夕刊 1面
- ↑ 16.0 16.1 『東京朝日新聞』1935年10月24日付朝刊 2面
- ↑ 『東京朝日新聞』1935年10月27日付朝刊 2面
- ↑ 『東京朝日新聞』1935年10月28日付朝刊 2面
- ↑ 『東京朝日新聞』1935年10月29日付朝刊 2面
- ↑ 高木 p.16
- ↑ 『東京朝日新聞』1935年10月27日付夕刊 1面
- ↑ 22.0 22.1 22.2 高木 1938 p.18
- ↑ North-China Daily News, October 29 1935, p.9
- ↑ 高木 1938 pp.17-18
- ↑ 高木 1938 pp.16-17
- ↑ 高木 1938 p.17
- ↑ 『東京朝日新聞』1935年12月8日付朝刊 4面
- ↑ 『東京朝日新聞』1935年12月12日付朝刊 4面
- ↑ 『東京朝日新聞』1936年5月18日付朝刊 2面
- ↑ 30.0 30.1 高木 1938 p.20
- ↑ 高木 1938 p.22
- ↑ 引用エラー: 無効な
<ref>
タグです。 「takagi24
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 33.0 33.1 33.2 33.3 33.4 33.5 『東京朝日新聞』1935年11月26日付朝刊 2面
- ↑ 高木 1938 p.28
- ↑ 高木 1938 p.29
- ↑ 高木 1938 pp.30-31
- ↑ 『東京朝日新聞』1935年12月16日付朝刊 2面
- ↑ 『東京朝日新聞』1935年12月20日付朝刊 2面
- ↑ 『東京朝日新聞』1935年12月26日付朝刊 2面
- ↑ 高木 1938 p.173
- ↑ 当時秘書長の池宗墨は後に共産党南京側の買収と述べている(高木 1938 p.159)
- ↑ 42.0 42.1 42.2 42.3 42.4 42.5 高木 1938 p.152
- ↑ 7月28日夜、宋哲元は張自忠に冀察政務委員会委員長、綏清交署主任及び北平市長の代理を務めるように指示を出すと秦徳純、馮治安とともに北平を脱出していた(戦史叢書 p.206)
- ↑ 陳暁清「殷汝耕」『民国人物伝 第11巻』 中国社会科学院近代史研究所 中華書局 2002年 p.467; 何立波「『華北自治運動』中的冀東偽政権」『二十一世紀』網絡版総第49期、2006.4
- ↑ 高木 1938 p.153
- ↑ 何 2006