陳泰
陳 泰(ちん たい、? - 260年)は、中国三国時代の魏の武将。字は玄伯。諡は穆。父は陳羣。母は荀氏(荀彧の娘、荀顗の姉)。叔父は荀顗。子は陳恂・陳温。
略歴
清流派の名家であった潁川陳氏は、同じ名家である荀氏や司馬氏の人々と古くから付き合いがあった。陳泰の世代も同じで、司馬師・昭兄弟とは特に親しかったことが、『三国志』魏書や『晋書』に散見される。陳泰と親交のあった武陔は「道理に通じて行ないが正しく、大らかで寛達とした人柄で、天下の教化を己の責務とする点では司空(陳羣)が勝る。しかし、優れた統率力を備えて要を得ること、功績を打ち立てるという点では、玄伯が勝る」と評した。
青龍年間に正二品・散騎侍郎に任じられ、正始年間には遊撃将軍に遷移し、并州刺史・振威将軍を与えられた。赴任後は、護匈奴中郎将として異民族の鎮撫にあたり、専ら恩愛によって心を掴んだため、異民族から畏敬された。
都の貴族たちが陳泰に財貨を届けて、異民族を奴隷として渡すように頼んだが、陳泰は役所の壁にそれら財物の入った袋を吊るし、放っておいた。後に、中央に召喚されて尚書となった時、初めてその袋を返したという。
嘉平年間の初め、雍州刺史となり奮威将軍を与えられた。当時、蜀漢の姜維が麹山に城を築き、魏の諸城へ侵攻していた。陳泰は、益州から麹までの道が険阻で兵糧の輸送手段に乏しく、また姜維が羌族(当時、蜀軍の労役に駆り出されていた)の人心を得ていないことを指摘。麹城への輸送路と水路を断って兵糧攻めを行ない、更には郭淮に依頼し援軍に来た姜維の退路をも遮断させた。このため姜維率いる本隊は撤退した。麹城も守将共々降伏することになった。
郭淮が亡くなると、陳泰が征西大将軍・仮節・都督雍涼諸軍事となった。後に、姜維と夏侯覇が祁山・石営・金城の三カ所へ攻め上って来ると、王経が三つの軍それぞれで迎撃することを提案したが、陳泰は蜀軍が三つの街道全てを進むことはないと判断し、また兵力の拡散を防ぐべきだと考えた。そこで、王経を先発させて狄道に駐屯させ、陳泰率いる本軍が陳倉を通って挟撃する作戦に出た。ところが、王経の軍は古関で蜀軍と鉢合わせし、その混乱で大敗して数万の兵を失い、しかも姜維の本隊に追われ、狄道城内に包囲されてしまった。陳泰は、王経が狄道に到着していないことから変事を察知し、上邽に本軍を駐屯させ、鄧艾・胡奮・王秘らの援軍と共に隴西へ進軍した。鄧艾は「姜維の軍は先勝したことで士気を揚げ、隴西は混乱しております。ここは狄道を捨ててでも、隴西を鎮撫すべきです」と主張した。しかし陳泰は「姜維が更に東進して、四郡(隴西・天水・南安・略陽)や関中を攻略すれば、それは確かに我が方の脅威だ。しかし、今、姜維は城攻めを行なっている。兵卒は鋭気を挫かれ、食糧も欠乏する頃だ。今が攻める機会なのだ。それに侵略者も、籠城する友軍も、どちらも放っておく訳にはいくまい」と言って退け、軍を狄道城へ進めた。夜半に狄道城の東南の山へ登った魏軍は、盛大に烽火を上げ、太鼓と角笛で援軍の到着を知らせた。このことで狄道城の将兵が大いに鼓舞され、逆に蜀は魏の予想以上の速攻に驚き、戦意を喪失した。姜維が撤退した後、王経は陳泰に「援軍があと十日も遅れていたら、狄道城だけでなく一州全てが陥落していたでしょう」と語った。
司馬昭は「諸葛亮が昔これと同じ事を考えていたが、結局実現できなかった。ましてや姜維の手に負える仕事ではない。それに城攻めは、陥落させるより食糧不足の方が問題になる。征西将軍(陳泰)の判断は正しかった」と言い、また「玄伯は沈毅果鋭、決断力のある人物だ。太守の重責にあり、陥落に瀕した城を救いながら増援を求めず、簡便な伝達方法で物事を処理した。都督や大将は、かくあるべきだ」と評した。
その後も陳泰は昇進を重ね、尚書左僕射まで位が進み、食邑も2600戸に及んだ。景元元年(260年)に死去し、司空を追贈され、「穆」と諡された。陳寿は「陳泰は広く世を救い、極めて慎ましく潔い人柄であり、誠によく父業を受け継いだ」と賞賛している。
陳泰と高貴郷公
裴松之の引く諸史書では、陳泰が曹髦(高貴郷公)殺害について、どのような反応を示したかを載せている。
干宝の『晋紀』では「高貴郷公が殺害された後、司馬昭が朝臣を集めて相談したが、陳泰だけは出席しなかった。そこで、陳泰の叔父の荀顗を遣わして、自分たちに理があることを説明させた。しかし、陳泰は「世人は私と叔父上を比べていますが[1]、今(殺された帝に対して忠節を保っているという点で)叔父上は私に敵いません」と言っただけだった。それでも、周囲の人々から強いられて、涙を流して参内した。司馬昭は密室で陳泰と二人きりになると、「私はどうすればいいだろうか」と尋ねた。陳泰は「賈充を斬り、天下に謝罪なされよ」と答えた。司馬昭が「別の手段を考えてはくれぬのか」と食い下がったが、陳泰は「私は、ただこれを進言しに参ったのです。別の手段など存じません」と答えるのみだった。司馬昭はそれ以上何も言わなかった。」
『魏志春秋』では「帝(=高貴郷公)が崩じたとき、司馬孚と尚書右僕射の陳泰は、帝の遺体を腿に枕させて哭泣の限りを尽くした。そこへ司馬昭が参内したため、陳泰は彼に向かって泣いた。」とあり、以下、『晋紀』と同じようなやりとりが記載されている。しかし、この会見の後に「かくして(陳泰は)血を吐いて亡くなった」との記述が付加されている点が、大きく異なる。
この二つを受けたと思しき『世説新語』では、「高貴郷公が殺されると、宮中の内外は動揺・混乱した。司馬昭は事態を収拾するため、陳泰に相談した。司馬昭「どのようにすればよいか」陳泰「賈充たちを斬り、天下に謝罪することのみ」司馬昭「それ以下で済む方法はないか」陳泰「それ以上の方法(=首謀者である司馬昭の死)はあっても、それ以下はあり得ません」」と、より劇的な言動に変えられている。
『晋紀』『魏志春秋』の記述について、いずれも裴松之は否定的な見方を示している。『晋紀』では陳泰の官位が「太常」とされているが、陳泰は太常に就任したことはない。『魏志春秋』の内容は『晋紀』のそれの焼き直しであるとする。また、裴松之が同面で引用する『博物記』では、当時の世評に「公(陳羣・陳泰)は卿(陳紀。鴻臚卿の官にあった)に劣り、卿は長(陳寔。太丘の長だった)に劣る」という評価があったことも載せている。 しかし、これらの逸話が一般に流布していたのは、陳泰が正史にあるように剛毅硬骨、誠実な人柄であることが、広く知られていたからであろう。