司馬孚

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司馬 孚(しば ふ、180年 - 272年)は、中国後漢末期から三国時代政治家で、西晋皇族叔達司馬朗司馬懿の弟で、司馬防の第3子。

略歴

兄達と同様曹操に仕えた。『晋書』によれば、温厚寛達で誠実な性格であり、人を恨んだことがない、とまで評されている。経書に精通し、文才にも秀でており、最初に与えられた官職は、曹操の子で文才をうたわれた曹植の文学掾であった。奔放な気質の持ち主であった曹植を度々諌め、曹植は最初、その諫言に反発していたが、後にはその非を謝し、司馬孚を厚遇した。

曹操の葬儀の際は、曹丕の哭礼があまりに激しいことを諫め、「あなたは天下の規範となるべきお方、小人の礼は取られますな」と忠告し、他の廷臣たちには「今、魏王を失って海内は混沌の極みであるのに、あなた方に泣いている暇などありません」と叱咤した。

魏には度支(たくし)尚書という軍事財政選任の国務長官が置かれた。諸葛亮の侵攻に苦しめられていた明帝は、司馬懿の弟であった司馬孚をこれに抜擢した。司馬孚は兵員・物資を的確に補充して、兄の戦いを後方から支援した。明帝は「わしは二人の司馬懿を得たぞ」と喜んだという。[1]

249年、司馬懿は曹爽に対してクーデターを起こしたが、司馬懿に協力する中護軍の司馬師尚書令の司馬孚は、速やかに洛陽の宮城の城門を押さえ、内外を鎮撫した。クーデターは成功し、曹爽は誅殺された。司馬師は251年2月に司空となり、7月に太尉となった。

253年3月、諸葛恪は大軍を率いて魏に侵攻したが、毌丘倹文欽合肥新城の張特とともにこれを防いだ。同年7月、司馬孚は20万の兵を率いて東征して合肥新城の包囲を解き、諸葛恪を撤退させた。

魏に重用された司馬孚は、魏への忠信が厚く、常に皇室を重んじる姿勢を貫いていた。第4代皇帝曹髦が暗殺された際、司馬孚はその遺体に取りすがって号泣し、更に司馬昭が太后の命であるとして、曹髦を庶人の格式で葬ろうとすることを聞くと、これに敢然と反対し、皇太后に上奏して王侯の格式で葬る許可を取り付け、そのように行った。彼は慎ましやかな性格で、兄が権勢を握っても、常に一歩下がった控えめな態度で忠勤に励み、陰謀には一切関わろうとしなかった。また、甥の司馬師や司馬昭らは、叔父が皇室を擁護する立場を取っていても、手出しすることはなかった。

265年司馬炎の皇帝として即位し、前皇帝の元帝が金墉城に移送された時、司馬孚は元帝の手を取り、「臣は死ぬ日まで魏の臣下で有り続けます」と涙ながらに謝した。司馬炎は大叔父である司馬孚を尊び、安平王に封じて4万戸の食邑を与え、さらに太宰・持節都督中外諸軍事に任じるなど優遇したが、司馬孚は鬱々として楽しまなかった。272年に死去。齢93の長命であった。は「献」。彼の葬儀は、後漢の東平王劉蒼の例にならい国葬として執り行なわれ、非常に盛大なものであったという。武帝の弟である斉王司馬攸の葬儀も、司馬孚の例に倣って行われたことが、『晋書』斉献王伝に見える。また、北魏楊衒之洛陽伽藍記』に、清河王元懌の葬儀が司馬孚の例に倣って行われたと記されている。

なお、『資治通鑑』を編纂した北宋司馬光は、司馬孚の末裔を称している。

宗室

脚注

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  1. 「晋書」司馬孚伝

伝記資料

『晋書』巻37(列伝第7)安平献王伝

関連項目

  • 司馬順 - 司馬炎の禅譲を、表だって批判した皇族
先代:
司馬懿
太傅
第3代:251年 - 265年
次代:
魏滅びる
先代:
-
西晋の太宰
初代:265年 - 272年
次代:
司馬望

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