長篠城
テンプレート:Infobox テンプレート:Location map+ 長篠城(ながしのじょう)は、三河設楽郡長篠(愛知県新城市長篠)にあった日本の城。特に天正3年(1575年)の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られる。
現在は国の史跡に指定され[1]、城跡として整備されている。
概説
この地域の交通の要衝の地にあった[2]。寒狭川(現在「豊川」と呼ばれているもの)と大野川(現在の宇連川)が合流する場所に突き出した断崖絶壁の上にあり、(南や東西方向については)二つの川と断崖絶壁に守られた天然の要塞であった[2]。
(▽状に)突き出した断崖の近く(やや西側、寒狭川寄り)に本丸を置いている。
長篠の戦いのころの構造について言うと、本丸のすぐ北側には堀が掘られ、その北側に二の丸、そのすぐ北側にまた堀が掘られていた。二の丸外側に三の丸、弾正曲輪などがあり、本丸の西側に服部曲輪があり、野牛曲輪なども築かれ、城域を北側を囲むように木柵が作られていた。川と断崖のおかげで南と東西の守りは堅かったが、北側は(台地状に)平地が広がっておりそのままでは守りが弱かったので、そちらにはしっかりとした堀が掘られていたのである[2]。
南や東西から見れば断崖絶壁上の城であるが、北側から見た姿をもってして「平城」に分類されることもある。
歴史・沿革
- 戦国時代
永正5年(1508年)今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城。元成と、その子孫・長篠菅沼氏が居城とする。
その後、徳川家康に服属するようになった。元亀2年(1571年)、武田信玄による三河侵攻の一端として、天野景貫によって攻められる。攻守双方の払った犠牲は大きかったが、陥落だけは免れた。その後、菅沼総領家・田峯菅沼氏から遣わされた使者の説得を受け、城主であった元成の直系玄孫・菅沼正貞は、心ならずも武田軍の圧力に屈した。
元亀4年(1573年)、武田家の当主であった武田信玄の病が悪化したことにより、前年末から続いていた武田軍の西上作戦が春には切り上げられ、武田軍は本国へ撤退。その途中で信玄は死去。その間隙に徳川家康によって攻められる。城主・正貞は天正元年8月(1573年)には開城退去、城に返り咲くことはなかった。以後、武田軍の再侵攻に備えて、家康により城が拡張される。(現在残る本丸の大規模な土塁などはこの時のものと考えられている。)
天正3年5月21日(1575年6月29日)、父・信玄の跡を継ぐことになった四男・武田勝頼が、(戦力の大半は本国に残し)持てる兵力の一部にあたる1万5千の兵を率いて[2]、奥平信昌が約五百の手勢で守る長篠城を攻め囲み、長篠の戦いが始まる。
天正4年(1576年)前年の長篠城の攻防戦で城が大きく損壊したこともあり、奥平信昌は新城城を築城し、長篠城は廃城となった。
- 現代
1929年(昭和4年)、当時の史蹟名勝天然紀念物保存法により、城跡一帯が国の史跡に指定された。 その後、帯曲輪跡には新城市立長篠城址史蹟保存館が建設され、長篠の戦いの理解を助ける展示がされるようになった。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(46番)に選定された。
遺構
城跡
本丸付近は多くの遺構が残っている。特に大規模な空堀と土塁が残っており、天正元年(1573年)に徳川家康が長篠城を奪取した後に大規模な修築を行った結果であると考えられている。また、飯田線のために本丸と寸断されてしまったが本丸南には野牛曲輪があり、ここの遺構はよく残っている。しかし一方で、城の北側のほとんどは埋没、破壊されている。現在は畑地や宅地などになっているが、一部に石垣の遺構を残している。
評論
小説家の伊東潤は『歴史人』2012年6月号(KKベストセラーズ)の連載寄稿「城を攻める⇒城を守る」にて、「構造に工夫が乏しい典型的な土豪の城である。それほど堅牢な城とは思えず、北方にある大通寺山から城の構造が丸見えなため、武田の大軍に落とせない城とも思えない。武田軍はこの城を囮として、後詰めに来る信長・家康をおびき出して決戦するつもりだったのではないか。しかし甘く見た長篠城を落とせないままでの合戦を強いられるなど、齟齬(そご)をきたした上で敗北した。」などと語った。
現地情報
所在地
- 愛知県新城市長篠字市場22-1