蒲生忠知
テンプレート:基礎情報 武士 蒲生 忠知(がもう ただとも)は、江戸時代前期の大名。出羽上山藩主、後に伊予松山藩主。諱は「ただちか」とも。
生涯
家督相続
慶長9年(1604年)、陸奥会津藩主・蒲生秀行の次男として生まれ、家臣蒲生郷治によって養育される。寛永3年(1626年)、上山藩4万石の藩主となる。
寛永4年(1627年)、兄の忠郷が嗣子なくして早世したため、本来ならば蒲生氏は断絶するところであったが、母正清院が徳川家康の娘であるということから、幕府の計らいを受けて忠知が家督を相続することを許された。ただし、会津60万石から伊予松山24万石に減移封されている。信心深かった正室の影響か、治世は良好で(暴君伝説も伝わるが、定型のものである)、寺院の建築、移築を行うなどの治績を残している。また居城である松山城の完成に特に力を注ぎ、二之丸を整備したと伝わる。
寛永7年(1630年)、再び勃発した重臣の抗争を裁いた。この裁判沙汰はなかなか決着がつかず3年にも及び、忠知は幕府の裁定を仰いで決着を図り、ようやくにして事態の解決を見た。結果として、福西・関・岡・志賀らの老臣が流罪・追放されるだけでなく、家老の蒲生郷喜の弟である蒲生郷舎も暇を出され、召し放つ事態に陥った。
寛永11年(1634年)、参勤交代の途上、京都の藩邸で急死した。享年31。死因は不明だが、兄・忠郷と同じく疱瘡が原因とも言われる。嗣子がなかったため、蒲生氏は断絶した。
伊予円福寺に肖像が伝わる。
蒲生忠知にまつわる怪奇話
忠知の死により近江蒲生氏の系統は断絶したが、これは祟りが遠因となったという巷説がある。忠知が藩主の座を継いで以降、世継ぎの男子が生まれないまま時を重ねていたが、やがて藩内の妊婦に憎悪を向けることとなり、妊婦を捕まえては腹を割き、母子共々殺害するという惨劇を繰り返していたという。非業の死を遂げた妊婦の怨念により、蒲生家は断絶に至ったと伝えられ、その証拠として松山城には「まな板石」なる物が残され、城址公園となった今でもすすり泣く声が聞こえるという(ただし、姫路城の「御菊井戸」など、城郭にはこの手の話がついてまわることは考慮せねばなるまい)。
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