北条氏時
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北条 氏時(ほうじょう うじとき)は、戦国時代の武将。伊勢盛時(北条早雲)の子、北条氏綱の弟。初代玉縄城主。生年は不明だが、嫡男・氏綱と同腹の次男と推定されており[1]、兄・氏綱(1487年)から四弟・長綱(幻庵・1493年、一説に1501年)までの間ということになる。
氏時に関する史料は極めて少ない[2]。享禄2年(1529年)5月15日付で伊豆国の三島大社護摩堂に宛てたものが初見文書であり、伊豆郡代または韮山城主であったと考えられる[1]。次の文書は同年8月19日付の相模国東郡二伝寺(藤沢市)宛てのものでこの時には玉縄城主になっていたことになる[1]。
大永6年(1526年)、安房の里見義豊が相模国鎌倉に乱入してきた際、戸部川で迎撃したとされている[3]。戦後両陣営で首を交換し、それを埋め弔うために建てた供養塔(玉縄首塚)が残る。供養は現在も「玉縄史蹟まつり」として毎年継承されている。→鶴岡八幡宮の戦い
享禄4年(1531年)8月18日に氏時は死去し、子がなかったため玉縄城主は兄・氏綱の子の為昌に引き継がれた[4]。
備考
歌舞伎演目「本朝廿四孝」に「足利将軍義晴の頃、信濃村上義清と組んで行動する"小田原の太守北条氏時"」なる登場人物があるが、これは本記事の人物とも他の同名人物とも関係なく、実在しない。